2-1
【牡羊座の男】
人間は考える葦である、だから葦は必死で考えた
細く弱く脆い一茎の葦は、ただ只管に考えた
自分は何故存在するのか 自分に何が出来るのか
そして、そもそも自分とは一体、どういうものなのか
だが結局、考えた先に答えが無い残酷な現実と対峙して
たとえ答えが出ても、それを確かな形に出来ない脆弱な自分と対峙して
幾ら何かを考えたところで、結局自分は無力な一茎の葦でしかないという、非情な答えと対峙して
――やがて葦は考えるのをやめた。
ゆく川の流れは絶えずして、されど、元の水にあらず――。
これは、鎌倉時代の歌人にして高名な随筆家である鴨長明が著書、『方丈記』の冒頭の節である。
有史遥か以前より、人の歴史は、大いなる流れの中に存在していた。
例えば、人に暖を齎すもの。薪が石炭に、石炭が石油に、石油が瓦斯に……時代と共に取って代わっていったように、
移ろう季節も、時代の流行も、決して絶えない大きな流れの中にあった。
そして……人の一生も、他ならぬその流れの中にあり続けた一つ。
大地を渡りゆく風、天空を渡りゆく雲、人心を渡りゆく音、世界を渡りゆく時。
青く美しきこの星を取り巻くのは、行き先定めぬ数多の流れ。悠然と、曇りなく、彼等はどこまでも旅を続ける。
だが、流れというものは往々にして、あまりに非情なそれでもある。この世界に流れる数多の水も、風も、音も、そして時も…………。
流れは、止まる事無く進みはすれど、その速さや向きがどれほど違えど、決して戻りはしない。
轟々たる時の流れは、儚い残滓の一欠片さえも、留まる事を許してはくれない。
ホンの数刻後にそこを見れば、流れの中に見出したものは遥か遠くへ過ぎ去り、そして戻る事はない。
人々の流行も、駆け抜けた青春も、生きゆく中で絶えず育んだ絆さえも、決してそこに留まってはくれない。
鴨長明は、この世界の大いなる数多の流れの中に、人の世の“無情”を見出した。
もしも、この世界の流れに固く棹を差し、決して変わらぬ“常なるもの”があるとすれば、それは一体何だろう。
人の愛か。自然の摂理か。師の教えか。世界の法則か。
……それとも、生きとし生けるあらゆる者の、醜い剥き出しの欲望か?
…………東京地方は今夜は大荒れだった。
激しい雨の礫が窓硝子を、瓦屋根を絶え間なく叩く。轟々と降り注ぐ雨が奏でる寒色のボレロを、
家路を急ぐ人々の靴と傘の音が彩る。都会の森の遥か彼方にそびえる鈍色の雲の城壁から、
冷たい水の矢が轟音と共に絨毯爆撃の如く射掛けられる。
雨がこの地に齎すものは浄化か。それとも苦痛か。人の数だけ答えがあるその問い。だから、その問いに正解というものはない。
この街に生きる人々は……降りしきる雨の中足を速めてそれぞれの場所へ向かう者達。
その一人一人の中にしか、答えはない。そしてそこに絶対に正しい答えなど、存在しない。
神田・神保町。東京都千代田区北部に位置し、神田地域に属する。北で西神田、北東で猿楽町、東で神田駿河台、
南東で神田小川町、南で神田錦町・一ツ橋、南西で九段南、西で九段北と接する。
中心部には東西に靖国通り、南北に白山通りがそれぞれ伸び、この二つの交差地点が神保町交差点である。
多くの書店や出版社、出版問屋の取次店が所在し、世界最大規模の古書店街、書店の町として知られ、
あの解体新書の原本を販売している店も存在する。
この神保町という街、いつかの太平洋戦争の際に行われた東京空襲においても、
“ここの古書が焼失する事は日本の文化にとって大きな損失である”として、標的となるのを免れたとか免れなかったとか…………。
八〇年代後半のバブル期も心ない地上げ屋によって数多の古書店が放火の憂き目にあったが、
彼等は決して屈することはなく、動乱を乗り越えた後もここに留まり、力強く営業を続けたという。
そんな神保町の駅から然程遠くない鈍色のオフィス街の中に、帆影大社はあった。
帆影大社は今から彼此六〇〇年くらい前にここ・神保町に建立された、日本国内では珍しい水の神である水分神を
御祭神として尊崇する神社である。元の名前は火影大社といい、五穀豊穣・火難削除を願って建立されたものの、
江戸時代の大火や戦時中の相次ぐ空襲によって再興しては焼け再興しては焼けを繰り返した事で、これでは御祭神に顔が立たぬと
約四〇年程前に現在の名に社名を変え、現在に至るまで神保町の人々の信仰を集めている。
降り注ぐ雨を吸い、生きるものに命を齎す肥沃な土がそれこそ申し訳程度にしかない無機質なコンクリジャングルを行く現代人の目には、
青々と茂る背の高い木々に囲まれた古風なその建物は、逆に新鮮に見えるのだろうか。
晴れた日の昼時ともなるとこの辺の学生やらビジネスマンやら子供連れやらが大社の境内を訪れて、一端に参拝などと殊勝な真似をしたり
木陰に腰掛けたり走り回ったり……とにかく皆めいめいに時を過ごす。兎角時間や人や目的に追い立てられがちな現代の人々にとって、
まさにここは都会のオアシスと言える場所であった。
千代田区最大級の神田明神よりはふた回り程小さいものの、そこの社務所にあるひとつの簡素な椅子に腰を下ろし、
これまた古びた簡素な木製の机に肘をついて、両の腿を遥かに超える程の長いアルパインブルーの髪とサファイアの瞳を持った……
明らかにこの国の人間ではない青年は息をついた。
分厚い水のカーテンが下ろされた窓の外の景色は酷く歪み、オフィス街のLEDライトと明滅する信号機の光も、
青年が見慣れたそれとは形を変えてしまっている。この国は兎角雨が多い。そして須らくこの国の人間は雨を嫌う。
雨が降れば人は容易く外を出歩けないし、躯を濡らせば風邪を引くし、嵐など吹いたりしようものなら柔らかい土を
硬いコンクリでつんつるてんに塗り固めたオフィス街などは何処からでも濁った水が満ち溢れて皆が皆大童だ。
だがこの雨がある御陰で作物は育ち、人々はその腹を満たす事が出来る。
乾いた世界に潤いが与えられ、熱を帯びる大地に涼を与えてくれるのだ。
太陽が出るその時だけが所謂“いい天気”などではない。水田も畑も全くと言っていいほどなく、
それらに絶えず触れて人の食物を日々生産する者達の苦や労を毛ほども感じる事なく、ただ好きなだけ漫然と貪るようにそれらを消費し続ける
この街の住人にはそれを理解する術などある筈もないが…………。
それでも冷たい雨ではなく、暖かな太陽を望むのは、他ならぬ人の本能とやらであろうか。
ふと何かを思い立ち、青年は窓に右手を翳す。物心ついた頃から青年は水と絆を感じていた。
神が作りたもうた被造物の中で、水とは真っ事不思議なものであり、真っ事気まぐれなものである。
決まった形を持たず、あらゆるものを溶かし、生きるものに命と潤いを齎すが、一度その恩恵を忘れたものには容赦なくその鋭い牙を剥いて、
容赦なくその命を奪い去る。まさにこの世界の摂理そのものを支配するものである、水。青年の手にはその支配権があった。
窓にかざしたその右手に、何かを掴んだ感覚を憶え、外套を引くように右へスライドさせる。
……ありえない事が起きた。
社務所の大きな窓の右側の窓、そこに映る雨がパタリと止む。もう一度意識を右腕に巡らせて今度は左方向に腕をスライドさせると、
左側の窓の外に降る雨も同様に止んでしまう。雨のカーテンは青年の右腕一本だけで一纏めになってしまった。
正確には……窓枠の外に流れが小さく凝縮され、そうして作られた小さな空間だけが、周囲の雨以上の轟々たる流れと化しているのだ。
これが、青年が持つ“力”だった。この世界に須らく存在する“流れ”。それに変調を起こすのが彼の力だ。
雨が降る度、青年は何度も何度も思い返す。己の力に気づき、同じように力を持った者達と、それを見出した師とともに、
直向きに道を求め、真理を求めた。そんな生き方に躊躇いを覚えた事などなかったし、師に対しても、仲間に対しても、その感情は同様だった。
とはいえ、この現代の世界に溢れる、こうした異質な力を持つ人間が必ず一度はそうするように、
一時はどうして自分にこのような力があるのかという疑問を持ったことがある。同志達の中でも彼はそれが顕著だった。
ここにたどり着くまでに一体幾つもの昼と夜を震えながら迎えただろうかと、今こうして束の間の平穏を取り戻した今でも、
彼は時々深く考え込む事がある。それにふと油断するとその力が、その過去が、青年の決して癒えない古傷を、
じわりじわりと疼かせるのだ……。
(この子は私の子じゃない! 悪魔の子よ!!)
(いやだ……嫌だ! 助けて……殺さないで!!)
(なんて恐ろしい…………。悪魔の子なら殺さねば!!)
(どっか行けよ……いや、とっとと死んじまえよ、化け物!!)
彼の手には、何も残っていなかった。
幼い頃の想い出も、胸に抱いた夢も、誰かに愛された温もりも。
持っていたのは“忌むべき力”という現実だけ。
“マーリンの傍にいれば、溺れ死ぬ”
少年期の彼の周りには、絶えずその言葉が飛び交っていた。
昼も夜もなく常に彼に注がれていた眼差し。時には嘲り、時には畏怖、時には羨望、そして時には……純然たる悪意。
鋭い刃物に似たそれらの眼差しは四方八方から、容赦も休む間も一切無く、彼の柔肌を撫で斬りにした。
血は流れない。肉体の痛みもない。だがそれは確実に、彼の居場所を、何より彼自身の平穏を、削ぎ取るように奪っていった。
彼を謗り、罵り、蔑んだ者達。だが一様に、彼の者達の心根にあったのは“恐れ”であった。
北欧・瑞典のとある片田舎に生を受け、先祖も親もごく普通の人間。
無論彼も彼の者達と同じように子供時代を過ごし、青年となり、妻を娶って子を授かり、穏やかに老いて死していく筈だった。
人並みの幸せを享受し、人並みの不幸せも噛み締めて、ひとりの人間の男として逞しく成長していく筈だった。
……人が、かの少年の背に“それ”を認めるその日までは。
彼自身も、家族も、周りの者達も、気付かないままの方が幸福だったかもしれない。
望んで得た訳ではないのに、生まれ出た時からその背にあった、人ならざるものの片翼。
小さなその背に確かに存在しながら、広く澄んだ大空を翔ける為の機能を持たない、小さな小さな片翼に。
“それ”に彼の周囲の人々が気付き始めのは、それから数年程平穏な日々が流れたとある日のことだった。
ある者は突然にテーブルの上の熱い珈琲を引っ繰り返し、ある者は大雨の後の車が飛ばす水飛沫をもろにその身に浴び、
ある者は何の前触れも無く家のバスタブの湯が漏れ出し、またある者は何の気なしに飲んだコップ一杯の水で悪性の食中毒に掛かり…………。
兎に角、何らかの形で彼と関わった人間には、皆例外無く水にまつわる災いが無差別に、一片の情け容赦無く振りかかった。
“彼”の無意識の片翼の羽撃きが世界に起こす波紋。それを見る事が出来ぬ者達は子羊のごとくただ怯え、ただ震えながら眠った。
それがただの一度だけならば全くの偶然で片付ける事が出来よう。だがそれらの災厄は次々に姿を変えて、
無差別に罪なき人を襲い、波紋の中心にはいつも、彼がいた。彼の周囲の人々の疑念がひとつの確信へと変わるまで、
そしてひとつの心ない噂という小さな羽撃きが巨大な嵐に変わるまで、それほど時を要する事はなく。
いつしか人々にとって彼のその名、その存在は、邪なそれとして定着していた。
……彼が悪魔の子として謗られるようになったのはそれからだ。村を歩けば人から恐れられ、憎まれ、石を投げられ、
気がつけばいつも一人だった。一部の心あるものさえも、せいぜい彼を刺激しないよう、そっと遠くから見つめるだけが精一杯だ。
彼の者の心の根底にも、やはりあるのは恐れだけだった。
いつしか学校にもロクに通わなくなり、家にも殆ど帰らなくなり、周りの人々から逃げるようにして日々を過ごした。
荒れるようにこそならなかったものの、既に彼に恐れを抱いていた友も家族も、帰らぬ我が子や友の心配などまるでしなかったが……。
あの日もいつも通り、村の中心を流れる小川に、少年はひとり佇んでいた。
学校にも家にも、当然村にも身の置き所を失くした彼は、ホンの少し暇があればこうしてこの小川の辺を一人訪れ、
変わり映えしない流れを眺めるのが日課となっていた。なぜここなのかは自分でも分からない。
ただ、感覚的に、少年はこの川の流れと絆を感じるようになっていた。
「こんなとこにいたか、マーリン」
不意に後ろから快活な男の声。学校でも人気者だった嘗てのクラスメイトだ。既に学校に通う事すら頭にない少年には、
今となってはそれこそどうでもいい人間の一人ではあるが。
「ヒューゴ…………」
「また今日も川をぼんやり見つめてたってか? 毎日飽きないよな、お前。みんな心配してるぞ?」
「デタラメ言うな。お前、俺がこの村の奴からどう呼ばれてるか分かってて言ってんのか」
「悪魔の子、だろ? それこそ根拠も何もないデタラメじゃねぇか。そんな噂流す奴も流す奴だけど、真に受けるお前もお前だぞ?」
「ヒューゴ、お前…………」
「とっ、とにかく。もしまた何かあったら相談しろ。待っててやるから。もし変な事ほざく奴がいたら俺がぶっ飛ばしてやるからよ!」
…………分からない。あのヒューゴという少年はどうしてそこまで自分を信じられるのか分からない。
少年が悪魔の子などと呼ばれる事実。そう呼ばれるのは、それなりの理由があるからだろう。
少年の傍にいた者はほぼ例外なく、ありとあらゆる形で水に関する災難に見舞われた。
それが一度や二度ではないから、彼は悪魔の子、彼の傍にいれば溺れ死ぬという噂が、広がっていったのではないか。
だがそれをヒューゴは根拠のないデタラメと言い切った。一体その自信はどこから来るのだろう。
それこそ“根拠のない”事だといってもいいくらいなのに。どうしてアイツは……ヒューゴは、悪魔の子と言われる自分を恐れないのか。
全く無意識のうちに、誰彼構わず呪いをかけるような、危険極まりない存在である自分を、どうして…………。
ザパアァンッ!!
突如水面に、巨大な岩を落したような激しい水音と飛沫。何事かと音の方向を向き、そして…………。
「ぐぇえ……グェ、グェ……マー……リン…………っ!!」
「ヒューゴ……ヒューゴッ!!」
「ウヴぁ、助……け、グぶぉ、助けて……ゴぼァ、くれぇっぇえぇ〜…………っ!!!」
ホンの一瞬、全身の生命活動が急停止した。
先程まで自分のすぐ傍にいたヒューゴが、目の前の小さな川の、ほぼ真中にいた……というより、ホンの刹那その目を離した数秒足らずの間に、
あの辺りまで流されていたのだ。何かに足を取られたか、彼はその太い腕を……いや、その大きな身体全体を大袈裟にばたつかせていた。
肺から徐々に失われゆく酸素を懸命に取り込もうと、その顔を只管水面から引き上げようと首の上下運動を絶やすこともなく。
だが、その全てはまさに徒労。どれだけ藻掻き足掻き苦しんでも、“助かりたい”というヒューゴの確かな意思は、
どうした事かその体を川岸へ運んではくれない。あたかも脳と繋がる四肢の回路が断線状態となってしまったかのように。
…………一番最初に、その自由を取り戻した眼を瞬かせる。
有り得ない。この川は一番深いところでも水深は約一メートル前後しか無く、流れも決して急なそれでは無い。寧ろこの辺りでは穏やかな方だ。
それに加えてヒューゴは泳ぎは得意な方だった。ここよりもっと深い川でも、まず溺れる事は無い。
そんなヒューゴが、今自分の目の前で、激しく水浴びをする鴉のように、不規則に水飛沫を上げながらじたばたともがいている……。
“助けなければ”。
すぐにそう考えた。自分の目の前で人が溺れている。その気になれば直ぐにそこへ辿り着けるじゃないか。
このあたりでも割と浅い川。夏場にでもなれば自分と同じか年下の子供達でさえわいのわいのと水浴びに興じる程浅い川だ、
自分もつられて溺れるなどという二次災害が起きる筈などない。
それに、彼自身も幾度も聞いた、村人達が異口同音に唱えるあの言葉。その中に少しでも真実があったとしたら…………。
他ならぬ自分のせいで人が一人溺れ死ぬ手前にあるのだとしたら、その責任の一端が自分にあるとしたら、尚更自分が助けねばならないだろう。
一歩、そこから踏み出せばいい。流れの中に踏み込めばいい。それさえできればあとはそのままそこへ行ける。
簡単な事だ……自分は行くんだ。行かねばならないんだ…………。それしか言えなくなったかの如く何度も、その心に言い聞かす。
だが……少年のその足は、ピクリともそこから動いてはくれない。深々と不可視の杭を根元まで打ち込まれたように、ホンの数ミリも動けなかった。
それどころか声も出せない。視線も動かせない。呼吸すらもままならない。
目の前で展開する光景に、少年の全ての体機能が、麻痺していた。今の自分に出来るのはあと数秒の後に訪れるであろう、
ただ只管ヒューゴという目の前で溺れる男が全ての力を使い果たして水底に沈みゆく様を、
ただ見つめる事だけ。ただその時を待つ事だけ。
「マー、リ……ん…………。ご……ブッ」
「ヒューゴっ!!」
その時はすぐに訪れ、少年ヒューゴの巨体が、彼の視界から消える。
田舎町の小さな川辺。そこに突如として降って沸いた大騒ぎに、老いも若きも男も女も、何事かと集まってくる。
彼はようやく気を取り直し、子供のやわな腕でどうにかこうにか、大柄なヒューゴの身体を、何事もなかったように静かに流れ行く小川から救い出す。
狭い川の中心から緑茂る岸辺までの距離が、その時の彼にはあまりに遠く感じられた。
自分よりずっと大きなヒューゴを背負い、流れに足を取られながらも陸地に辿り着き。
そっとその身体を河原に横たえた瞬間に、ヒューゴの心臓は。
――――その鼓動を永遠に止めた。
河原に一瞬にして静寂が訪れ、そしてそれはすぐさま無数の悲鳴に摩り替った。
どれだけ小さな子供でもまず溺死まで至らない、緩やかな浅い川で、一人の少年が溺れ、死んだ。
この事実は、一人の少年が、いるべき場所を一辺になくすには十分過ぎた。
“マーリンの傍にいれば、溺れ死ぬ”
彼に付き纏っていた心無き者達の流したその噂を止める力は少年にはなかった。
実際に一人…………それは何かの偶然かも知れないが、少年に関わった人間が一人、溺れ死んだという事実は覆らないのだから。
噂は尾鰭がついて学校を、田舎町を、そして国そのものを駆け抜け…………。
やがて彼は誰に何も告げずひとり静かに故郷を去った。
あれからぼろぼろに傷ついた身一つで、どれくらいの道程を歩んだかは分からない。
足は痛み、目は霞み、ホンの僅かな気力すら底を尽きかけ、それでもロクに行き先すら定めずに歩き続け…………。
気がついたら、一人の老いた男の前に蹲っていた。
「――お前は迷っている」
老人の第一声はそれだった。だが、それは明らかに少年の知らない国の言葉だ。
どうやら知らない間に少年はいつの間にか国境線まで越えてしまっていたらしい。
それなのにどうしてあの時の自分は、その知らない言葉の意味を解する事が出来たのだろうか。
「俺は悪魔の子なんですよ」
悪魔の子…………幼き日の少年に絶えず浴びせられた言葉。今思えば本当にその通りだった。
だからこそ、何よりも忌み嫌ってきた悪魔の子だという言葉を、彼ははっきり言い切る事ができた。
何故自分はこうも気易く、自分の事を悪魔などと自嘲気味に口に出来るのか。
しかも、先程出逢ったばかりの、この老いた男に。自分の言に疑いを抱く少年に老人は語る。
「……お前は悪魔が全て邪な存在だと言い切れるか? それとも、天使が皆清廉潔白だと言い切れるか?
この世には……悪しきそれだと知っていても、魔性の物に縋る迷い人もいる。その迷い人も須らく悪と言い切れるか……?」
老人も自分の国の言葉を解したのか、悪魔と自嘲する自分に、諭すように語った。まるで何かを悟ったかのような口ぶりだ。
「私も、魔性の物に縋る一人だ。お前はそんな私を見て……悪だと、思うか…………?」
首を大袈裟に横に振る。その時にはっきりと感じ取った。この老人が魔性と繋がる者……魔術師であるという事を。
魔術師が実在する事は少年も既に知っていた。だがその魔術師がこうして目の前にいるという現実に、
少年は自分で自分が抱いている感情を解する事が出来ずにいた。驚いているのか、疑っているのか、それとも歓喜しているのか……。
老人は続けた。聞けば少年がここに居るのは、他ならぬ少年自身の“力”の導きだという。自分をずっと苛んできた水の呪い。
老人はそれこそが少年の力だと告げた。そして、未だ彼の中で定まらぬその流れを御する術を……力の使い方を教えるとも。
あまりに大それたその言を容易に信じる事は不可能だったが、少年はその根拠のない言に、光明を見出していた。
自分も魔性の物とやらにすがってみようと、本気で思った。
「何故お前に力があるのか、そしてそれで何をすべきなのか……そこまでは教えん。全ては自分で考え、答えを出せ。
そしてその答えは、絶対に正しいものだと心から信じろ」
無意識のうちに、少年はその言葉に引き込まれていた。その意味に、何かを見出し始めていた。
「お前に、確かな名を与える」
老魔術師は少年に上着を脱ぐよう促す。まだ成長期が訪れていない薄い少年の胸板を、鋭利な刃物のような魔術師の爪がなぞる。
すぐさまそこに熱を憶え、震える瞳でそれを凝視する。
(何だ……これは)
胸に刻み込まれた奇っ怪な、絵とも文字ともつかぬそれに……未だ灼けるような熱を帯びるそれに、言い知れぬ何かを覚える。
寒気を、律動を、奔流を、そこにダイレクトに感じ取る。胸に渦巻く膨大なエネルギーに、少年は声にならない苦鳴を上げ続ける。
それらが収まり、胸を押さえながら膝をついて呻く少年に、老魔術師は告げる。
「牡羊座十九度の、星の海に住まう水魔、ヒリス……それが、お前の名だ。お前がその身に携えし、この世界の大いなる“流れ”。
それを己が力で御し、固く閉ざされた運命の扉を開く為の鍵。それが、私がお前に授けた名と、この印章だ」
少年、老魔術師、二つの視線が重なる。
「少年よ…………お前は、何者だ」
「……水魔、ヒリス」
それが、始まり。
少年が“マーリン・アンドゥレアス”という自分を殺した瞬間。
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