愛き夜魔へのデディケート

第零楽章
【生と死と揺蕩う者の前奏曲(プレリュード)

 星の、満月の輝きに、夜の静けさに、懐かしさを覚える。

 胸にそそり立った、白銀の杭を握る両の手に、熱を憶える。

 冷たい夜の闇も、月の静かな光も、朽ちかけたその躯を溶かし落とす程の烈しさを持ったこの熱を、冷ましてはくれない。 

 熱の根源を……今なお痛みを発する胸を、彼女はその真紅の瞳で凝視する。


 遥か昔の、当時としては新鋭の攻城兵器によってバラバラに朽ちて、今は無残な屍を晒す石造りの城郭。

 陽の光を拒むように造られたその部屋……城の最奥の謁見の間だったと思われるそこには、今や命あるものを受け入れる余地(スペース)など

 どこにもない。せいぜい、嘗てこの城が人の立ち入りを拒むような場所だったのをいい事に、勝手に住み着いた人ならざる者……

 異形の皇女だったものの哀れな残骸が、やたら整った赤絨毯の上に大の字になって斃れているだけだ。

 今尚胸の中心部分、銀の杭が深く打たれた場所から少しずつ、生の証が滲み出る。溢れ出た紅は今尚瑞々しさを保ち続ける

 体表面を伝って絨毯に流れ、悉く染み込まれて消えゆく。滑らかな手触りのこの杭をまっすぐぶっこ抜けば、

 紅色の生の証はそれこそ間欠泉のごとく垂直に吹き出すだろう。

 ほんの数ミリ急所である心臓を外れていたのは幸いというべきか、それとも災いというべきか。この杭が、自分を、この冷たい地に打ち付け、

 縛り付けている。目の前の忌々しいそれに唇を噛みながら、皇女はあの時の事を少しずつ、想い出していた。


 かれこれ数百年も昔の話だ。その両手に銀の杭と拳銃を携え、背中に巨大な十字架の形をとった剣を背負い、

 女王などと呼ばれた自分に単身で立ち向かった若者がいた。

 割といい男だった。はっきり言って、好みだった。

 その身体に流れる暖かい血を吸い尽くして眷属として永遠に傍に置いておくのも一興だと思った。

 しかし、その体から漂う血の香は、それこそ噎せ返る程濃厚なそれ。自分と同じ人ではない者は勿論の事、

 同族である人間も数え切れない程その手にかけて来たであろう事は、容易に想像できた。

 赤色(レッド)暗赤色(ガーネット)臙脂色(クリムゾン)紅色(カーマイン)朱色(ヴァーミリオン)真紅色(カーディナル)緋色(スカーレット)……一口に赤色と言っても、この世には様々な赤がある。

 彼女は赤が好きだった。まともな人間であれば五回くらい代替わりしているであろう永い永い年月を、あらゆる赤を啜る事で、

 若々しく美しい姿を保ち、生きた。

 赤を……血を啜って生きる。彼女は、生まれてこの方その己の営みに疑問を感じた事はない。人がパンと葡萄酒(ワイン)と獣の肉を糧に

 生を繋ぐように、彼女は人の温かい生の証を糧に、永い永い時を生きながらえてきたのだ。
 
 当然、盲目的に人の命を尊ぶ人の世が彼女のその行いを、もとい、彼女の存在そのものを赦す筈などなく。

 幾人もの狩人とか呼ばれる人間が、彼女のもとへとやってきた。

 あるときは屈強な戦士、ある時は大自然を手にした若い娘、またある時は復讐心に身を焦がす年端もいかぬ少年。

 可笑しな話だ。人の世は他の命を犠牲にする事で成り立っていると人は言う。自分達とその営みは何ら変わらない癖に、

 人の命を啜って生きる自分達の行いを彼等は狂ったように非難し、自分達を血に飢えた悪魔と罵り、己の悪を棚に上げ、

 薄っぺらい正義の御旗を掲げて殺しにかかる。

 だが、そんな者達に待っていた運命はほぼ例外なく、その牙にかかって無残に死ぬるか、生ける屍となってこの世を彷徨うか、

 はたまたホンの僅かな勇気すら立ち所に萎えて惨めに尻尾を巻いて逃げ帰るか、そのいずれかだ。

 それが彼女は面白かった。自分達を秩序を乱すものとして忌み嫌い、無知で傲慢で利己的な人間が、

 いざ自分の力が及ばない存在と対峙した時の無様な様相といったらない。だからこそ、彼女はそんな“彼”に惹かれたのだろう。

 今までの者とは質がまるごと違う存在に、興を抱いたのだろう。

 眼に宿るのは狂気。その身を動かしているのは嗜虐心。人でありながら自ら人を捨てた存在。

 ワインやウイスキーと同じ感覚でガブガブとあらゆる赤に呑んだくれた、限りなく自分と同じようで自分と違う存在……

 それが彼女の青年に対する第一印象だ。

 …………何故、彼は今尚人であり続けるのだろう。あの時の自分はそんな事を考えた。


 勿論、そんな彼女の想いを彼の青年が解する術はない。人の理屈が人と異なるものに通用する理由などないし、無論、逆も然りだ。

 何より彼は自分を斃す為だけに、わざわざ明るい人里からこんな薄暗い辺境の古城にまでやってきたのだ。

 理由までは分からないが、それを解しそこにある過ちを……人の愚かさを彼女が糾したところで、

 その言を解する術などあるはずもないのだ…………人面獣心のこの狩人には。

 ならば、力づく。それも悪くないと思ったから、それも面白いと思ったから、彼女は狩人と対峙した。


 剣が、銃弾が、絶え間なく襲い来る。その爪でそれを跳ね除け、雷を、炎を、浴びせかける。

 奴はその全てを躱し、捌き、ほぼ瞬時に眼前の彼女へ肉迫する。

 互いの存亡を賭した戦いは数刻ほど続いた。もっとも最後(オチ)は、ついに万策尽きたと思われた狩人の思わぬ最後の一手(わるあがき)…………。

いつもどおりの圧倒的勝利を確信し、冷笑を浮かべながら狩人の傍に歩み寄った彼女は、

 すぐ目の前に倒れ臥した彼の若者が漏らす笑の意を解する事が出来ず。

 当然、身体の中心に銀の杭がそそり立っている事さえ、理解できる筈もなく。何故狩人の……

 下賎な人間の陳腐な騙し討ちに自分が引っかかってしまったのか、疑問に思う術もなく。

 その激しい胸の痛みと熱に、彼女の体は大地に屈服した。星のない夜空を背景に見上げた狩人の顔には、深い深い笑が刻まれていた。

 それはそれは今まで自分が餌食にしてきた人間達に向けてきたそれより、ずっと冥い笑だった。

 杭がホンの僅かに心臓を外れたのは狩人にも僅かな逡巡があったのか、一端に慈悲でも掛けたつもりなのか、

 それとも逆に余計な苦痛を長く味わわせるためにわざとそうしたのか。

 とにかくその結果、今日この時までの……まさに悠久のそれに近い永い永い時を、彼女は、ありとあらゆる痛みと共に過ごした。

 “恐怖”も、“怒り”も、“悲しみ”も感じなかった。ただ只管、痛みしか感じなかった。

 奴の中に何があったのか、奴を駆り立てるのは何だったのか、分からないまま彼女は痛みに耐え続けた。


 永劫に限りなく近い苦しみの果てに、痛みの中に見出した何か。それを確かめる為に皇女は白銀の杭を掴む。

 不浄なる者を退ける力を秘める銀の杭は、一切の容赦なく、握り締めた皇女の両の掌を焼く。

 それでも彼女は、杭を握り締めたその手に力を込める。あの日から……いや、あの日よりずっと前からの疑問に、答えを出すために。

 少しずつ、少しずつ、そこに墓標のごとくそそり立っていた杭は音もなく彼女の胸を離れていき、ついに完全な別離を余儀なくされる。

 廃墟と化した居城のホールに金属音が響く。城から這い出し、何百年かぶりに両の足で踏みしめた地の感触は、あの時と寸分の変わりもなく。

 少しずつ、穢れた土の感触と共に、自分の存在の実感が戻ってくる。既に澄み切った己が心。それで最初に紡ぐのは確かな決意。

 
 “世界にとってどちらが悪か、今度こそ、ハッキリさせよう”

 杭打たれし夜魔の女王(クイーンヴァンパイア)……シビリー=ハーケンベルクの声なき咆哮が、黎く冥い宵闇に響き渡った。


 ――なぜ人は、争いを止めないのだろう。


 今からずっと昔、およそ千年くらい昔、人々から魔法使いなどと呼ばれたとある男が、そんな事を考えた。

 その頃の箱庭は……オズワルドとか呼ばれたその世界は、グチャドロの欲望で満ち溢れていた。

 ただでさえ狭い国土と領地、資源を巡って争う国家。

 富める者貧しき者を問わず、欲望のままに地を駆けて奪えるもの全てを奪う盗賊(ハイエナ)どもの横行。

 金、女、あらゆる私心を満たすべく下劣な策を巡らす穢れた人間達。

 パンドラの箱の中身をぶちまけたような混沌が、オズワルドという箱庭の中で渦を巻き、

 それが巨大な嵐となるまではさほど時間は掛からず。嵐が去ったそのあとに、堆く積もるのは、絶望する事すら許されなかった哀れな屍だけ。

 だから魔法使いは考えた。人間の敵を作ろうと。

 人間同士が団結し、立ち向かって戦う対象がいれば。人間の敵を狩る者がいれば。力なき人々は敵の敵は味方と考える事が出来れば。

 ……少なからず、叡智ある人間は、同士討ちして滅んだりなどしないはずだと。

 自分が、パンドラの箱に残った人の希望となろうと。


 それは邪な術だと、当然魔法使いも知っていた。

 既に彼に躊躇いはない。おそらくそれは彼が生涯で最後に犯した、深い深い罪業。

 戦場に、野辺に、冷たい床に倒れたものから、新たな生命を作り上げる……屍霊術(ネクロマンシー)とかいう術だ。

 魔法使いには当然、その心得はあった。決して使う事はなかろうと手前勝手に考えてはいたが、そんな事は全くなかった。

 兎も角、生命そのものを削った禁忌の術を行使して、魔法使いは人類の敵となる存在を、生み出した。

 人の血を、精を、夢を糧に命を繋ぐ者達。人に恐れられ、憎まれ、斃される為に生まれる者達。

 夜魔と呼ばれた彼等と人間の終わりなき戦いの始まりにより、人間同士の旧来の争いは、終焉を迎える筈、だった。


 ……もっとも、それは見事な当ての槌。


 自分達が人間以上の力を持つ事を知って、それ故の傲慢から、人を家畜のごとく支配しようなどと考える夜魔。 

 今まで持っていた以上のどす黒い欲望を叶えるべく、敵対者である夜魔と手を結び、謀略の限りを尽くす人間。

 永遠の悪役を演ずる事を強いられる自分の存在に疑いを持つ夜魔と、人間社会の秩序を守る為の夜魔の存在に疑いを持つ人間。

 夜魔の永遠の生に憧れる、もしくはそれをルール違反として罰しようとする人間。

 人間の醜い部分に憤る夜魔と、人を愛する感情を闇の中から見出した夜魔。

 そして、世界の均衡を保つべく、人でありながら人ならざる力をその身に宿した人間……術師などと呼ばれる者達。

 だが彼等も……時に人から恐れられ、時に欲望に溺れ、時に己を見失い、深き心の闇を露呈して……。

 争うのは人と夜魔だけの筈だったのに、今も人は人同士で争い、敵対者である筈の夜魔は夜魔と争い、

 人の守りである筈の術師も何をか言わんやだ。

 全ての始まりたる魔法使いが没した今も、その構図は何一つ、変わってはいない…………。


 この世界を……オズワルドを織りなしているのは、人と人ならざる者達の争いにより紡がれた、至上の混沌だけだ。

 そして今尚、他ならぬその至上の混沌が、軋み音を上げながら世界(オズワルド)歯車(とき)を回し続けている。


 ここに、オズワルドの住人達の宿命を纏めた物語(オムニバス)がある。

 貴方にもしも勇があるのなら、ここでひとつの話を語ろう。

 人から夜魔の皇女へデディケートされた、人の最期の物語を。

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