ユーザーズ・マニュアル
stage1『邪術師は逆襲する』

1-6

【少女が見た異界】

 

「…………っ」

 少女はその朝、何度目かの声にならない呟きを、その口元に漏らした。

 夜の蒼、そして朝の白のグラデーションに染まった空。またいつもの朝が来たというのに、その濃密な靄が、どうも晴れない。

 まだ体機能が完全回復していない起き掛けのその体に、朝の光は堪える。朝の到来を告げるその光が、今はあまりに憎たらしい。

「んっ、あぁ……っ。うぅ…………」

 また、いつもの日々が、始まろうとしている。だがその少女にとってその日常は、あの夜を境に、既にその形を留めてなどいない。

 理由はあまりに簡単だ。普通に過ごし暮せばまず見ないものを、一夜のうちに少女は見すぎたのだ。

 世界は、心のありようでその姿を幾重にも変えるという。確かに、世界は変わった。変わりすぎた。

 少女は別に、世界にそれを望んでいたわけではないというのに…………。

「行ってきます……」

 既にその声に力はなく、足取りも兎角、重い。食欲などある筈もない。

 いつもの通学電車の平坦なリズムの中にも思わず違和感を憶えてしまう。駅を降りた後の御茶ノ水の街並みも、

明るさとかコントラストとか、とっくに見慣れたそれの筈なのに、あれ、と思ってしまう。

 いつもの幼馴染の少年とはあの日から、天海高校での一件からもう彼此三日は口をきかないばかりか、目すらロクに合わせない日が続いている。

 幼馴染とクラスが別なのが幸いした。もしも彼が自分の級友(クラスメイト)であったなら、幼馴染以上の関係をもう一つ、持っていたなら…………。

 恐らく、彼と共に過ごした一二年間までもが、自分の知るそれとは、あまりに異質なそれになってしまっていただろう。

 今日も、ひとりきりの登校だ。いつも欠かさず迎えに訪れる少年がいない。ただそれだけで、大きな違和感を憶える。

 未だに実感がない、ここは二次元の世界なのかと感じたあの日の出来事を、独りになると……嫌でも想い返してしまう。

それがあの黒い少女の言う通り、紛れもない現実だとしても。

 

(貴女は見なければいけない。そしてその全てを、確かな現実と受け止めなければいけない…………)

 

 あの黒い少女の言葉が焼きついて離れない。邪術師。吸血鬼。そして、超能力者。

 創作の……自分が好きな二次元の世界にしか存在しない筈の者達が、薄い窓や障子すら一切隔てない世界に……

自分の住まう世界に、確かに存在している。

それだけではない。何よりも、自分と非常に近しい距離にいる、気心知れた人がそんな者達……異界の住人だという現実。

そんな到底許容しがたい現実すら、黒い少女は確かなそれと、平然と言ってのけた。

 自分達の世界と陸続きの異界。その扉はどこにあったのか。あるとしたら自分はいつそれを開いたのか…………。

 いつもどおりの聖エミールまでの道程。その途上、ほぼ毎日、有紗が考えたのはその事だけ。

 だけど、何となく、これだけは分かっている。もう自分は、この異界から、決して引き返せないという事だけは。

 

 聖エミールの二年花組、上辺だけ見れば何ら変わり映えしないいつもの教室だ。学友達はいつものようにここに集ってくる。

無論有紗もその一人だが、あの出来事以来、馴染みの教室やクラスメイト達に、どこか“これじゃない”という感が拭えない。

 時間にしてたった一夜だけなのに、そのたった一夜のあまりに濃厚な非日常に身を置いていた自分。既にその非日常は過ぎ去り、

今目の前で、身の回りで繰り返されるのは当たり前の日常。

 まるで自分が白無地の布の片隅に付いた染みにでもなったような気分だった。ホンの一片ではあるものの、

今までの自分の知るそれと異なる世界を垣間見た自分と、それの存在そのものを知らない学友達……違いはあまりにも明白だ。

 明らかにこの中で異質なのは自分の方だ。もしかしたらすぐにでも自分がこの場所から爪弾かれそうな予感がしてならない。

 そうでなくても有紗自身、自分が誰よりもズレた存在である事は分かっている。それぐらい、分かっているのに…………。

「な〜にブルー入ってるのよ、有紗〜」 

 頭に飛び込んできたのは間延びしたアルトの、軽薄な少女の声だ。

「なんだ、紗己か」

 いつものメイプルの波打ったセミロング。すっかり見慣れた筈の紗己の顔も、ホンの小さな何処かが違って見えてしまう。

「ひっどいなぁ! こう言っちゃあアレだけど、有紗最近変だよ」

 ストレートすぎる紗己の“変”という言だが、有紗は敢えてそれを否定しない。

「あぁ、ちょっと、色々と……ね」

「もしかして漫研の部誌の事? それ分かるなぁ。あたしも渾身の記事がボツってさぁ、今週中に得ダネ探さないとマズイのよ〜。

有紗ならわかるよね?」

「うん、似たようなもんだし……分かるかも」

 違うと突っ込めば済む話なのに、思わず心配してくれる紗己に嘘をついてしまっている事に胸が痛む。

自分が可笑しい原因、あの夜の出来事を話せない事が……例えあの紗己でも信じてはもらえないだろうという不安が心に閊えている。

「あぁ〜っ、またあの人間荷電粒子砲が出て来てくれないかなぁ! スクープすれば絶対得ダネになるってのになぁ〜!」

「えぇ〜、まだ諦めてなかったの紗己?」

「諦めるわけ無いでしょ! スーパーヒーローだよ? すっごいスーパーヒーローがこの東京にいるんだよ!?

 ジャーナリストってのはすっごい物や人をスクープしてナンボでしょっ!」

「う、うん、そう……だねっ」

「そうよっ。まぁ、困った事があるんならいつでも言ってよ。宿題写すのは無理でも部誌の資料写真ならいつでも用意するから、さ」

「じゃあお願いしようかな。いつもありがと、紗己」

「良いって事よ」

 そんなこんなで間も無く始業のチャイムが鳴り、また繰り返されるいつもの日常。

(スーパーヒーローかぁ……懐かしいな)

 今日も雲一つない青い空。いつの間にか有紗は、過ぎ去った筈の嘗ての夢を、ぼうっと見つめる空に描いていた。

 スーパーヒーローや、魔法少女がいる世界に憧れていた。彼等の活躍を間近で見たいと思っていたし、すぐそばで応援してみたいとも思っていた。

 現実に人が居るビルや街を、滅茶苦茶に壊しながら巨大ロボットが戦う事に疑問を持たなかった幼い頃。

壮絶な戦いの果てに倒れた悪役にも、仲間や家族といった大事な人が居るという事など毛程も考えなかったあの頃。

ほぼ週一で宇宙人や怪獣が現れる世界に何ら違和感を感じなかった、無知な少女の頃。

 …………あの頃は良かったなぁ、と感じた事は一度や二度ではない。辛く厳しい現実の垢に塗れながらも、時に彼方此方迷いながらも、

あの頃の熱意と感覚を持ったまま、八幡原有紗は少しずつ大人になっていった。そして気がついたら世間で言う腐女子に

カテゴライズされるようになり、漫画家という夢もまだ半人前ではあるが、周りの誰よりも一足早く叶えてしまった。

 自分は二つの世界の境界にいる、と黒い少女は言った。世界には沢山の境界があると黒い少女は言った。

 今考えたら、あの時も……天海高校の脩の元へ駆けつけたあの時も、自分はその境界の上にいたのではと思う。

フィクションの世界にしかいない筈の者達が全く同じ場所にいるのを少女はその目で見ていたのだ。

いや、自分も他ならぬその場所に立っていた一人だ。

 あの場所にあったのは夢と現実の境界。現実と地続きの異界を垣間見て、その細い足で踏み込んで、その小さな手で確かに触れて…………。

 境界を超えた先にあったのは、自分の知る世界からあまりにどっぱずれた……しかし、何処かで憧れていた世界。

(何よ……結局初めから、私も所謂“普通の人”じゃなかったじゃん)

 弾き出した一つの答え。いつ、どこで境界を超えたのかは知らない。

だけど自分なら、境界を超えた今なら、そこに確かな何かを見出せるかもしれない。見えない何かに気付けるかもしれない。

 ……あと少しで何かが吹っ切れる。いつもの自分みたいに開き直れる。誰よりも図抜けて前向きになれる。

 そのきっかけはホンの少し、ホンの小さなひと押しでいい。少女は、その時を今か今かと待ち望む…………。

 

「やはり……報われない命というのもあるものねぇ……」

 黒き少女……リリィの呟きが、紅茶の湯気とともにかき消える。傍らに立つ少年は冷淡な表情を崩さずそれを見つめている。

 彼のひとつの激闘。そしてとある邪術師の死。あれから二日か三日程度しかたっていないと言うのに、

不思議とそれはもう何ヶ月も前の事のように思えてくる。自分も、彼も、こんな事は幾度も経験したはずなのに。

 人の死。人の罪。人の欲望。何度も何度もそれに触れて、少年も少女も、気づいてしまった事がある。

 人が一人、死ぬ。それだけで周囲の人間には悲哀だの悔しさだの、ありとあらゆる想いが去来するだろうが、

大きな世界から見てみれば、所詮それらは結局数名レベルの家族や仲間といった、あまりに小さな洋杯(コップ)の中の嵐でしかない。

 一国の指導者が死んだところでその場では大いなる悲しみが込み上げるだろうが、時間が経てばそれも忘却の彼方へ過ぎ去り、

何事もなかったかのように世界の営みは繰り返す。

 結局、一人の人の死などこの大きすぎる世界の中では、所詮その程度のものでしかない……。あまりに、哀しき哉。

 

「…………仕方ねぇよ」

 少年は、たった一言そう呟く。諦観とも、嘆息ともとれる、ただそれだけの呟き。脩だからこそ漏れるその言葉。

それを聞いて、その表情を見て、リリィもまた溜息を一つ、零す。

 彼は……姫鶴脩という少年は、狂気の天才たる父によって絶大なる力というものを与えられたばかりに、

今日までこんな経験をそれこそ、数え切れないほどして来たのだ。

 彼の父が何の為に息子に力を与えたのかは知る由もないが、その力で無数の屍を築き、紅き血河を轟々と流し、

それでも彼は今日までその中を、生き延びてきた…………。まだ、一七年かそこらしか生きていない少年の身で。

 しかし、そのたった一七年という年月の間に、彼は人の罪を知りすぎた。自らもあらゆる罪を犯し、人の罪を背負っていくうちに、

多くのそれを知り、犯し、背負いすぎた。

 ……あの邪術師を罰する事さえも、結局脩にとっては今までその小さすぎる身に無数に背負ってきた、重すぎる罪のひとつでしかない。

 故に、脩は今までに殺した人の数を憶えていない。憶えたところでその罪に赦しが得られるわけでもないし、

彼が殺した咎人達には彼を罰する資格も術もないのだから。

 赦しはない。救いもない。そして、終わりもない。人が、罪を犯す生き物ならば。

 脩の苦しみも、その罪と罰も。

 

 邪術師……米田憲太郎の遺体はその日の朝、学校近くを散歩していた近隣住民の通報により発見され、

天海高校周辺は上を下への大騒ぎとなった。彼の遺体はすぐさま司法解剖に回され、死因の究明が急がれた。

左腕や右足が強烈な熱で焼き切られたような形跡があった他、着用していた学生服がところどころ焦げ、

その下の肌も真っ黒い焦げ目が無数に存在する等不審な点が多く見受けられたが、結局現場の状況と凶器を始めとする

その他の物的証拠が見つからなかった事から、苛めを苦にした自殺と判断され、これ以上の深い究明はされなかった。

 憲太郎の心の奥にあった深い闇。警察はそれに目を向ける事無く、全てを更に深い深い闇に葬り去った。

 突然の校長の失踪によって臨時休校状態だった天海高校では矢代光吉、そして苛めグループのリーダー格の男の死が

緊急の全校集会で告げられ、久しぶりに学び舎に集った生徒達は皆須らく、深い悲しみに包まれた。

 通夜、そして葬儀にはそれぞれのクラスメイト、教師、付き合いのあった先輩後輩が相次いで参列し、

あまりに突然の親しい仲間との別れに……ある者は大粒の涙を流し、ある者は既に亡き犯人に対する怒りに小さな身を震わせた。

 暫くして米田憲太郎の遺体も、その日のうちに家族の下へ無言の帰宅を果たした。だが、仮にも一人息子である憲太郎を、

それこそ蛇蝎の如く嫌っていた家族は遺体の引取りを全面的に拒否し、葬儀や告別式その他を一切行わないと抜かしたのだ。

 無論、警察も懸命の説得を試みたが家族は頑として聞き入れず、憲太郎の遺体はしばらく警視庁内の安置所に置かれた後、

あたかも死刑囚の如く、ひっそりと葬られる事と相成った。

 

 結局。

 最後の最期のその時まで。

 米田憲太郎は。

 誰からも謗られる存在のまま。

 この世からもあの世からも。

 永久追放をかっ食らったのである。

 

「仕方ない……か」

 その部分だけは、リリィも納得せざるを得なかった。

 憲太郎の決して赦されざる罪。それが、脩には見えていたに違いない。見えていたからこそ、見過ごすわけにはいかなかっただろう。

 憲太郎は、確かに苛めという卑劣な行いの標的であった。だが、そこから抜け出すための手段が、あまりに拙かった。

 己と向き合わなかった事。強くなる事を放棄した事。己の改善を怠った事。

 そして、全てを諦め、邪な術に手を染め、その全てを己の力の如く振るった事…………。

 それこそが、米田憲太郎の罪。その罪はあまりに重く、業は深く、しかし、この世の誰にも罰せない。それに下された罰……それが、脩。

「確かに、ね。彼の道行きも、貴方の宿業(さだめ)も。……まるで坂を転がる小石だわ。一度動き出したら己の意思では引き返す事も止まる事も出来ない。

“人”とはつくづく、憐れな生き物ね…………」

 力を与えられた以上、兵器の烙印を押された以上、彼は生き方を選べない。力なき人に害を為す、悪しき力を持った遣い人を討ち続けるのが、

他ならぬ彼の存在理由(レゾンデートル)。彼が彼である事のただひとつの証明。

 それを知ってか知らずか。脩は少女に背を向けて、ひとつだけ確かな事を、告げる。

「リリィ。分かりきった事は無しだぜ。もう止まれない事は分かってるし、自分テメェで止まるつもりもない。

ただ、俺は自分の正義だけは全力で肯定するさ……この世のどんな正義と拮抗しようとな」

「そうね。だけど一つだけ聞いてあげる。例えその身に鉛玉を撃ち込まれても、煮え滾る湯の中に投げ込まれても、

腸に石を隙間なく詰め込まれても……貴方は狼で居続ける覚悟があるかしら?」

 問いに答えることなく扉の向こうへ消える脩を、リリィは見送る。何と虚しい生、何と哀れな存在だろう。

 人の形を留めてはいても、その中に確かにある“それ”は、人のそれとはあまりにかけ離れた破壊兵器そのもの。

斃し、壊し、そして用済みになれば廃棄されるが定め。彼が全てを終えた先にある世界。人の望む世界。

それは、彼を必要としない世界…………。もしもその時が来たならば、世界は彼を、一人の“人”として受け入れるだろうか。

 詮無いそれでも、少女はそれを願ってやまない。“人”として生まれたなら、少なくとも、彼には人として生きてほしいのだ。

 転がる石のようなそれでも、誰かがそれを止めてくれれば……誰かがそれを拾ってくれれば、彼は人でいる権利があるという事。

それを保証するものがある事の何と幸せな事か。

 いや……希望ならあるかもしれない。もしかしたら、あの少女なら彼を受け止められるかもしれない。

それは結局希望的観測どころか、ただの願望でしかないが。そんな人物が近くにいる。

それだけで少年は誰よりも恵まれた存在かもしれない。それだけで、彼は彼で居続けることが出来るかもしれない……。

 

「でも……解せないわねぇ…………」

 一つの疑問が、リリィの中で引っかかる。一体誰があれしきの力を、憲太郎に与えたのだろう。

 彼の恨みの念は確かに紛れもない本物だったが、ヴードゥーの邪術はそれだけで軽々と揮えるほど陳腐な技術ではない。

だからあのパウダーをあの日憲太郎が欲したときも、リリィはそれを徹底的に拒んだ。米田憲太郎という少年が復讐という武器に振り回され、

無益な戦いに敗れ破滅するのが、はっきりと目に見えていたから。それほどまでに危険なヴードゥー魔術をそれこそ小枝の如く揮える存在が、

この国に確かにいるという事実を、あの事件は突きつけた。

 自分達と同じ異界の技術を揮う者。自分以外に、そんな技術を持つものがこの国に、しかもこの東京にいる。果たしてそれは何者か。

そして、何のため彼の者に…………。“女史”は珍しく首を傾げる。

 と、リリィの傍に飛来したのは、彼女の使い魔たる一匹の蝙蝠。足に掴んでいるのは一枚のカード。

 そっとそれを凝視した少女の口元が、キッと歪む。紅と蒼の直角三角形を重ね、それを黄金の輪で囲んだ変形魔法円。

中心に描かれた、原子記号を思わせる、奇怪かつ禍々しいオーラを絶えず放つ印象(シンボル)

 “奴等”だ。そのマークだけですぐに理解した。そして、他ならぬ姫鶴脩を待つ巨大な運命も、そのマークは暗示している。

 …………それこそ、不快になるくらいに。

 

「上等じゃない……」

 カードは、黒い少女の掌から発せられた漆黒の炎に包まれ、一粒の灰も残さずに、消えた。

 

 一年、三六五日、ほぼ毎日、人通りというものが絶えない渋谷区も、必ず人を寄せつけない何かが絶えず立ち込める場所がある。

 コンクリートの無機質な大樹の影、黄昏時の裏通り。キャッチバーだの如何わしいビデオショップだの、

割と健全に生きていればまず縁を持つ事がない、人の歪んだ欲望の掃き溜めのような薄暗がりの(スラム)

 人間社会が(ゴミ)として微塵ほどの容赦も無く排斥していったもの達のきつい臭いと、人生に疲れた者達が発する溜息を主成分とした

極彩色の絶望が、噎せ返るほどそこに立ちこめている。

 そしてそこの奥の奥、時として斬った張ったのヤクザ渡世の者や無軌道なチーマー達の格好の溜まり場となり得る、

下手をすればこのコンクリジャングルで遭難して哀れ行き倒れた者の無残な屍が彼方此方転転がっていても何ら違和感を感じない、

暖かい太陽の光などまず届かない地下道。その入口にでん、と停められた白いバンの持ち主たる、

肩の付け根辺りまで不精に伸びた金髪のひょろ長い男は、下卑た笑いを口元に湛えながら、

白い封筒に詰められた大量の福沢諭吉を一枚ずつ、勘定していた。

 後部座席から立ち込める独特の匂い。三段のラック狭しと並べられた硝子のビーカー、

その中に並々と注がれている無色透明の粘性のない液体……トルエン。芳香族炭化水素に属する有機化合物。

 ベンゼンの水素原子の一つをメチル基で置換した構造を持つ。アルコール類や油類などをよく溶かし、溶媒として広く用いられる。

 常温で揮発性があり、引火性を有する。人体に対しては高濃度の存在下では麻酔作用がある他、毒性が非常に強いため、

日本では毒物及び劇物取締法により劇物に指定されている。本来は消防法による危険物……第四類第一石油類に指定されており、

一定量以上の貯蔵には消防署やら何処かしらへの届出が必要であるのだが、頭だけはそれなりによく回るこの男なら、

所持するための最低限の資格を得る事など訳はなかった。

 これが自分に莫大な富を齎してくれる事実に、男はただただ笑いを禁じ得なかった。

 用途について根掘り葉掘り聞いてくる店員を巧みに騙して入手した四〇リットル数千円程度のトルエンが、

ホンの数分足らずで諭吉一〇枚程度に化けるのだから。トルエンの、大金の味を知った男に迷いも良心の呵責もない。

そして今日も暗い渋谷の街頭で、その男の商売が始まろうとしていた。

 

 数分もしないうちに、最初の相手が見つかった。路地の向こう、愛車のバンの約八〇メートル先。少々線の細い、

顔立ちも美少女を想起させる程整った少年が“商品”を扱うが如く、握った右の拳を鼻先に当てている。

自分達トルエンの売人の世界でのみ通じる、“売ってくれ、頼む”の合図。

 なるほど。今日の(カモ)はどうやらこいつらしい。どうやらどこかの高校生のようだ。

 以前も同じ高校生が……見た感じはステレオタイプの苛めグループのトップみたいな奴だったか、そんな奴が商品を求めて来た。

 一端の売人である男は当然、自分が扱う“商品”の危険性は十二分に認識していた。トルエンを一度体内に取り込めば

幻覚を見たり心がトリップしたりと、苦痛に満ち溢れた現実ではまず味わえない極上の快楽を感じられる。

 今までの客もそれを求めて、この自分の元に縋ってきたのだ。

 だがどんな薬にも副作用はつきものである。トルエンの場合は精神その他に深刻な依存性を与え、食欲を過剰に削ぎ、

見当障害やら判断力の低下やら、仕舞いには身体にまで不調が顕れるやら……。当然の如く生命に直結する事もザラにある。

 はて、奴等は……このガキと同じくらいの、以前商品を売ったあの苛めっ子連中はどうなったのやら……いや、そんな事は自分には関係ない。

 自分はただ、商品を売っているだけ。客が犯罪に走って刑務所行きになろうが、家庭崩壊の犠牲になろうが、

はたまた無残にくたばろうが、そいつ等の人生その他に自分は一切関知などするつもりなどない。

 気にするべきは自分の手元に残る確かな売上のみ。つまり……相手が誰であろうと構わない。出すもの出すなら売るだけだ。

 すっかり作り慣れた、誠意その他など毛ほどもない満面の営業スマイルを携えて、男は少年に接触する。

 蒼いショートカットの両サイドに銀のメッシュ。その痩躯に見合わない鋭い眼光に、隙その他が一切無い身のこなし。

 今までにはいなかったタイプの奴だ。思わず威圧されそうになるが、あの合図を知っているという事は奴は客だ。

そして“人間辞めたって構わない”何て変な覚悟を持ってここに来ている真性の馬鹿者だ。そう考えるといつもの調子が出てくる。

「よう……兄ちゃん」

 何度も使ったお決まりの売り文句フレーズ。それに少年が無言のまま、睥睨で応えて来る。

「早速だが商品を見てもらおうか」

 ごつい手にビーカーを一つ取り、少年の鼻先スレスレにまで近づけてやる。

「純度一〇〇パーセントの高級品だ。一辺嗅いだらもう最高にいい気分になれるぜ?」

 表情を一切変える事無くトルエンの品定めをしている少年。へぇ、という呟きを少年が漏らしたのを見計らい、すぐさま男はビーカーを引っ込めた。

「おっと。世の中、何かを只で頂こうなんて甘い話はねぇ。コイツが欲しいんだったら出すもん出してもらわねぇとなぁ?」

「そう……だったな」

 そうだ……これはあくまでも、商売だ。欲しいものがあるなら出すものを出す、それが世間の常識だ。それを弁えない奴は客じゃない。

 そんな奴は一人残らず地獄の最奥に“お帰り願って”貰った。だが、こいつならその心配はなさそうだ。

 

 “そうだったな”。

 

 その言葉を聞く限り、この場で自分が出すべきものは持っているようだから。

「…………支払いは……これで頼む」

「な……ん…………!?」

 ――男が、そう言った少年の両手に、鮮やかな碧の放電現象を認めた時には。

 ……全てが、遅かった。

 

 ズバァァン!!

 

 刹那、強烈な閃光がこちらに向かって突っ込んでくる。

 腕の辺りに直撃した、耐え難いほどの高熱を齎した碧の光。一瞬遮られた視界がすぐに元に戻り、背後で生々しい肉の落下音が二つ響く。

一体何が起こったのかを確かめようと、男は首を左右に振る。

「う、うわぁぁっぁゎっわわわわわぁあ!! 腕が! 俺の腕があぁぁ!!」

 男の両腕は、それこそ根元から、あまりに強烈な熱で焼き切られてしまっていた。高熱ですぐさま塞がれた為か、

傷口からの出血は無かったものの、両腕というそこにあるべきものがないという事実だけで、一瞬にして男はパニック状態に陥る。

「まだ終わりじゃない」

 再び少年の双つの手に光が灯る。先ほど腕を吹き飛ばした光は今度は大腿部の辺りに飛んできた。

 当然その直撃を食らった男の足は胴体との別離を余儀なくされ、男の視界は急降下して、自然と目の前の少年を見上げる形となる。

「ひっ、ひぃぃいぃぃ…………っ!」

 かつん、かつん……という少年の足音がやけに大きく響く。二人の相対距離がほぼ零になった頃か、

少年の手が達磨状態の男の胸倉を捕える。腕や足があれば抵抗も出来ようが、それを吹き飛ばされた今ではそれも詮無い事。

 

 そのまま、男の視界は。

 縦に一八〇度旋回し。

 ぐしゃりと何かが叩き割られる音を、間近で聞いた頃には。

 世界の全てが、何よりも鮮やかな、紅に染まっていた。

 ぼやけて行く世界の中で、一生懸命目を凝らすと、赤、紅、朱の世界の中に。

 

 ――吹き飛んだ自分の両の腕と足が、横たわっていた。

 

 何故だ。何故こんな目に遭わなければならないのか。何故腕と足を吹き飛ばされて殺されなければならないのか。

 自分はただ品物を売っていただけなのに。悪いのは勝手に破滅していった奴等なのに。

「い……ぃぃい……っ。ぃ……でぇ……いでぇ……ょぉお…………おがぁぢゃぁん…………!!」

 やがて、その男の嗚咽も小さく、そして途切れ途切れになり。

 

 …………暫らくしてそれも、止んだ。

 

 いつしか少年の翳も、幾人もの人を狂わせた無数のトルエンも希望無き碧の破壊の光に呑まれ、渋谷の裏路地から消えた。

 数多の不幸で出来た泡銭と、暗い海よりも深い欲に溺れた一人の男と共に。

 

 あの事件から何日か経った、金曜日の夕刻。久しぶりに脩と有紗は、いつもの帰り道を、揃って下校している。

 二人の間に言葉はない。あまりにも重苦しい雰囲気が、二人のいる空間を満たしている。

一二年間共に過ごしてきて、今までこれほどまでに沈黙が長引いた事はない。

「有紗」

 意を決して問うたのは、長い長い沈黙を破ったのは、脩の方だった。

「……俺が、怖ぇか」

 あまりにそれは唐突だった。それを受け、二人ともその歩みを止める。

「こないだの事で分かっただろう? 俺は……所謂、ヒトじゃない」

 あの時少女の前で知らしめた確かな事実を、少年は告げた。

「俺は一個の大量破壊兵器だ。俺はお前達と同じ世界でぬくぬく生きちゃあ……いけねぇんだよ」

 人知を超えた力を持つ者。それにより人を斃す宿命を負う者。例え幼馴染でも、いつその力を向けても可笑しくない者。

「……怖いよ。すごく、怖い」

 有紗の答え。それは……それだけは確かな、一寸の揺るぎも歪みもないそれだ。

「そうだろ。有紗……俺は、お前と……」

 

(スーパーヒーローだよ? すっごいスーパーヒーローがこの東京にいるんだよ!?)

 ぐるぐると、世界が、回る。そしていつしかそれは止まり、羅針盤が一つの大きな扉を示す。

その扉の先はアニメでも、漫画でも、ましてやゲームの世界でもない。

(別に難しい事じゃないわ。どちらが正しいかは自分で決めてしまえばいい)

 全て、事実。全て、現実。しかも、それは、すぐ傍に存在する。それさえも確かな事実、確かな現実。

しかし、何処かで憧れていた、あまりにも鮮やかな現実。

(…………そのために、俺みてぇな奴がいるんだ)

 鮮やかな現実が広がる異界。異界の扉は開かれ、少女がそこへ足を踏み出すのを、今か今かと待ち望んでいる……。

 

「な〜んて、ね」

 

 くるっと一八〇度旋回した有紗。その顔には幼馴染に向けるための、満面の笑みが浮かんでいる。

 流石の脩も思わず絶句した。立ち込めていた陰の空気があっという間に彼方へと消え去るのが分かる。

「私は知ってるよ。貴方は私の幼馴染の姫鶴脩だって。私達、一体何年幼馴染やってると思ってるの?

 今頃になって脩なんかが怖いわけ、ないじゃない!!」

 幼馴染ならではのあっけらかんとした口調。先程までの有紗とのあまりに大きな温度差に、脩は思わず次の句を紡ぐ術を失う。

「それにさ……カッコいいよ! アニメとか漫画とかゲームとかみたいでさ。うん! 最高のネタがすぐ傍にあるなんて、こんなシチュないわ!!」

 そして、大きく安堵した。苦い過去だろうが耐え難い現実だろうが全てを受け入れ、そこに深く埋もれた輝き、

楽しい事や美しいものをその目で見出せる……。それが、八幡原有紗の“強さ”。

 自分達遣い人(ユーザー)の強さとは全く別次元の強さが、姫鶴脩の中の“人”を、何よりも固く保障するのだ。

 同時に感じた。自分では、とてもこの少女を止める事は不可能だ、とも。

「…………危険だぜ、いいのか?」

 脩としてはそう聞くのだけが精一杯だ。自分達が生きる危険な遣い人が跋扈する世界は、

それこそテロや戦争に怯える諸外国のそこと何ら変わりもないのに。いつ自分に危険が訪れるかなんて分からないのに。

夢や希望がないどころか、絶望すらロクに許されないのに。

何故、この少女は、そんな危険すら楽しもうなんて気位を持てるのだろうか……。

「全っ然。もしその時がきたなら、脩はちゃんと私を守ってくれるでしょ?」

 小さな有紗の手が脩の手に重なる。じわりと暖かな命の熱を返すそれは少女の確かな熱意の表れだ。

 “ちゃんと私を守ってくれる”…………単なる有紗の勘違いでも、それは確かに有紗自身を、そして脩を、強く支えている。

「よし、そうと決まったら、さっさと次のこみカの原稿済ませないとね。早速椛や寿樹君に召集かけなきゃ!!」

 景気よく取り出した携帯電話。光吉の救急車の時とは全く違う軽やかな指使いだ。

 数秒もしないうちに召集のメールは二人の下へ送信される。脩は同い年のアシスタント二人に、深い同情を禁じ得なかった。

「脩も消しゴムとか背景とかばっちりやらないとね。今日は私の家へ直行よ!」

「……ったく。敵わないな、全くよ」

「いいでしょ、土日なんだから。ま、今日だけは全員徹夜必死でしょうけどね〜」

「はぁ〜あ。精々お手柔らかに頼むぜ……」

 あぁ、これなら間違いなく、脩や椛、そして寿樹の安眠は保障されないだろう。

 だが、あの状態の有紗を止める事など、今の脩にはまず不可能に近い。赤々と燃えながら沈み行く夕日。

全てを終える頃、自分達の目には、あの太陽が真っ黄色に見えるに違いない。

 既に“敵わない”が口癖になっている自分に少々嫌気に似たそれを憶えながらも、スキップを踏みながら家路に就く有紗の背を、

脩はいつもの足取りで……しかし、その口元に幽かな笑みを浮かべながら追いかけるのであった。

 

 で……やはりというかなんというか、その夜有紗の部屋の灯りが消える事は無かったという。

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