ユーザーズ・マニュアル
stage1『邪術師は逆襲する』

1-3
【邪術師の契り】

「うっわぁ……こいつぁ凄いッスねぇ……」

 自分達を出迎えた、見慣れない品の数々を認め、少年……矢代光吉は感嘆の声を上げる。

 

 赤く燃え立つ太陽は無論の事、青く冴える月、煌びやかに映える星……そこはこの世界のあらゆる光を拒むように、

深い闇に満ちた空間……。彼らが立つ“ここ”が、まさにそんな場所だった。

 創作の世界にしか無い筈のものが溢れる、一般社会と地続きの異世界。“ここ”が、まさにそんな場所だった。

 山手線を真っ二つに分かつように走る総武線。秋葉原駅から乗り換えて、御茶ノ水、四谷、新宿と、

都内屈指のメガタウンを車窓に見止めながら二五分ほどかかって辿り着くのは、中野。

 中野サンプラザ、中野サンモールなど、非常に名の知れたスポットが乱立する、東京二三区でもかなり“濃い”世界である。

 駅に降り立ったものを最初に出迎えるのが中野を代表する大規模商業施設、中野ブロードウェイ。秋葉原や池袋ほどではないにしろ、

ここも二次元と三次元の境界が薄れ、そこに一際濃密なカオスが流れ込む、この世界の異端者(アウトサイダー)達の吹き溜まりである。

 その中野ブロードウェイの片隅……。オカルト業界では既に女史として畏敬の対象となっている漆黒の少女、

リリィ・ファーランドが店主を務める、オカルトグッズの専門店『セカンド・デグリー』。

“そこ”に姫鶴脩一行が辿り着いた頃には、既に時刻は七時をとうに経過していた。

「ホント、いつ来ても慣れねぇな……」

 陳列棚狭しと並ぶオカルトグッズの数々を眺めながら脩は呆れたように呟いてみる。

魔除け程度なら役に立ちそうなシルバーのアクセサリーや色とりどりのチャームやパワーストーン、タロットカード、

水晶玉や真っ黒に塗りつぶされた鏡。 儀式の道具として使われるのだろうか。祭壇に飾るための悪趣味な人形、短剣、杖、

そして、一際大きな釜と(チャリス)。また別の場所には中々どうして難しそうな……カバラやドルイドの古典魔術は言うに及ばず、

北欧のルーン魔術、中国の方術、更には陰陽道の秘儀まで……古今東西の魔術を網羅した書籍(グリモワール)がぎっしりと並んでいる。

 

 リリィの店……セカンド・デグリーはまさに人間、そして世界が荒唐無稽な迷信として悉く排斥していった、

人の心が生み出す暗部……そしてそれが生み出した恐るべき技術……オカルティズムの吹き溜まりであった。

 既にここのほぼ常連となっている脩でさえ、この店に並ぶ品物の数々、そして店主たるリリィの存在に、

時折不覚にも強烈な疑いに似たような感情を抱いてしまう事も間々ある。

 とはいえ……決して脩はそんな黴の生えたようなオカルトをやたらめったら排斥したり、狂ったように現代科学万能説を妄信したりするような

愚者ではない。 目に見える科学の世界に限界というものを見出し、まともな者であれば辿り着く事も叶わないオカルトの世界に、

敢えて身をおいたファウスト博士。

 そんなファウスト博士と同じ轍を踏んだ父・姫鶴鏡博士の背中を見て育った脩は……。いや、脩だからこそ、

オカルトの世界の奥深さも、現代の科学者たちの底の浅さも、嫌と言うほどに理解している。

“効くと思えば効くもの”……。それが、脩が変わらず持ち続けている、魔術の世界に対するスタンスだ。

 

 いつものようにぼんやりと品物を眺めている脩と離れた有紗と光吉は、普段の日常であればまず見ない品物の数々に目を輝かせる。

 それはそうだ……今まで創作ファンタジーの世界にしか存在しないと思っていた様々なものが、目の前どころか少し手を伸ばせば

容易く届く場所にあるのだ。コンピューターゲーム好きな光吉も、生粋の創作人である有紗も、胸をときめかせないわけがない。

 この世界の何より濃密であるはずなのに意外と曖昧な、現実と夢の境界線。そこに建つのが『セカンド・デグリー』。

中野ブロードウェイの隅に隠れるようにあるここは、都内の若者達のちょっとした穴場スポットだ。

 ……と、有紗の両の目が、一つの細長いボトルを認めた。透明な樹脂製の、一〇〇ミリリットル程度のボトル。

ラベルに十字架をあしらったそのボトルの中身は透明な液体。まじまじとそれを見つめる有紗にリリィは告げた。

「ホーリー・ウォーター……所謂、聖水ね」

「聖水……これってゾンビを治すアイテムですよね?」

 後世に作られたイメージに裏付けされたあまりに頓珍漢な有紗の答えにも、オカルトのプロフェッショナルたるリリィは動じない。

「まぁ……貴女のイメージはそんなものかもしれないわね。確かに聖水にはそうした用途もある。だけど……本来の使い方は、

魔術の儀式を行う際の道具や場所に、霊的な浄化をもたらす為のものよ」

 霊的な浄化……聞きなれない、というより普段なら絶対聞かないその言葉に、有紗も光吉も目を丸くする。

「まぁ、口で説明するより、聖水が如何なるものかを実際に見た方が分かりやすいわね。……着いて来なさいな」

 踵を返すとリリィは薄暗い店の更に奥へ通ずる古惚けた扉の向こうへ消える。有紗、光吉、そして脩がそれに続いた。

 

 そこは、あまりに殺風景な部屋だった。装飾品も何もない八畳程度の部屋には、四隅にキャンドルが灯された燭台。

中央には古惚けた木製のテーブル。それを脩、リリィ、有紗、光吉が取り囲んでいる。

 テーブルの上に在るのは有紗が興味を示していた聖水と、銀板に六芒星(ヘキサグラム)が描かれたチャーム。

「これが聖水ですか〜……」

「そう。そしてこれから行われるのが、聖水本来の用途。……ふふ。まるでどこぞの質の悪い街頭販売みたいだけど…………」

 街頭販売というよりはそれこそ怪しげな健康食品や運動器具を扱う、需要というものをまるで考えていない深夜のテレビショッピングのようだ。

言うなりリリィは、必死に耳を欹てなければ聴き取る事叶わない小さな声で、聖別の祈祷文を読み上げて行く。

 一頻り唱え終わると聖水のボトルから透明な液体が零れ、チャームを聖水が満たして行く。チャームから漏れた聖水が

テーブルに染みていくにつれ、先程から部屋に立ち込めていた空気の中の穢れが、少しずつ和らいで行くのを有紗も感じていた。

 ……儀式は、ほんの数分程度で終わった。

 リリィが有紗にチャームを持ってみるよう促す。恐る恐る有紗は、それを手にとって見た……。

(!!)

 不思議だ。日々の暮らしの中で絶えず感じていた、不安や焦燥といった感情が徐々に和らいでくる気がする……。

 いや、はっきりと感じる。和らいでくる。チャームそのものがそうした感情を、自ら風を発してそれに融かして流していくように。

 決してフィクションの世界ではない、これは現実に、自分の傍で起きている事……有紗は思わず息を呑んだ。

「少しくらいは……理解、出来たかしら」

 小さく首を縦に振る有紗。創作の世界でしか触れる事叶わなかった魔術の世界。視認こそ出来なかったものの、

確かにチャームが絶えず放つ“癒し”の力が、それをありありと少女に見せ付けている。

 チャームをその手にしているだけで、両手に放たれる力を感じるだけで、感嘆の溜息が止め処なく溢れ出る…………。

 

“これが、魔術の世界”。

 その重い扉を開け、大きな一歩を踏み出すまでの勇気は出なかったが、確かに少女は、それを“見た”。

 

「ん? アイツ……」

 リリィ言うところの“街頭販売”たる儀式を終え、いの一番に暗い部屋を出た光吉が、店の片隅にとある小さな人影を認めた。

「知ってんのか」

 脩と有紗も彼の者の存在に気付く。もっとも、それはあまりに陰気な、しかしすぐにでも萎びて消え入りそうな、希薄かつ不快な存在だったが。

「あぁ、俺のクラスメイトだった米田憲太郎ってヤツですよ」

 米田憲太郎と呼ばれたその少年。落ち着いていないのか視線を棚のあちこちに投げ、暗い表情を浮かべている。

 恐らく、此方の存在には気付いていないらしい。そして背後の三人の話題の中心に自分がいる事さえも。

「クラスメイト……だった?」

「アイツ、ついこないだウチの学校、退学処分になったんです。学校にトルエンを持ち込んで」

「ちょ……っ、トルエンって。劇薬じゃない!! あんな真面目そうな子が何で……」

「俺だって分かりませんよ!」

 有紗と光吉は喧々囂々。憲太郎という少年からじわじわと滲み出る陰鬱な気を感じ取って成り行きを見つめる脩。

 

“アイツ……嫌な気を纏ってやがる”。

 

 脩の経験上、あの気を持つ者は大抵心に濃厚な闇を抱えているものだ。例えば億単位の借金に追われているとか。

 例えば重大な罪を犯して今もその影に怯えているとか。例えば自ら命を絶ちたくなるほどの壮絶な苛めを受けたとか……。

 奴はそんな嫌な気を全身から棚引かせている。真っ先にそれを感じ取った脩は彼を……米田憲太郎を警戒した。

「君。もうすぐ閉店よ?」

「あ、あぁ……はい……」

 不意に声をかけたリリィに対し、そう答える少年……米田と呼ばれた少年の顔には、明らかに翳りの色が浮かんでいる。

だが暫くすると彼は顔を伏せたまま、一直線にカウンターへ歩み寄る。手元にあるのは小さな瓶。

「こ……っ。これ、ください…………」

「……何かしら…………!?」

 

 おずおずと少年が差し出した小瓶に、リリィは思わず息を呑む。それは中米ハイチに伝わる秘教・ブードゥーをルーツに持つ

強力な呪術の道具であり、対象に振り掛けたり特定の場所に撒いたりして効力を発揮させる、マジカル・パウダーのひとつ。

 擦れたアルファベットでグレイブヤード・ダストと読めるラベルが貼られたパウダーの小瓶を少年はリリィに震える手で突き出している。

グレイブヤード・ダストは、自分に対する敵を打ち負かすためのパウダーである“グーファー・ダスト”の強化版だ。

 グーファー・ダスト自体、敵の身体や家の敷地に撒いたりする事により、それに触れたり嗅いだりして影響を受けた憎むべき敵を、

精神的な錯乱状態に陥れる非常に危険なパウダーである。それよりも更に強い効果を持つ恐るべきマジカル・パウダー……

グレイブヤード・ダスト。

 その影響を受けたものがどのような末路を辿るかは想像に難くない。その効き目はあまりに強大なもの故、

リリィもこうした危険な道具は本当に信頼の置ける者にしか売らないのを信条としている。

「グレイブヤード・ダストねぇ……こんな物騒なものを欲しがるなんて、貴方って相当訳アリなのかしら?」

「……復讐、したいんです。僕を苛めた奴等に。僕の人生を、台無しにした奴等に……」

 その重い言葉が空間を一気に鈍色に染める。まともな大人であればすぐさま一笑に付して蔑みの視線を向ける復讐という言葉。

 それがほぼ瞬間的に、少年の口をついて出たのだ。どうやらこの憲太郎とかいう少年、よほど壮絶な責め苦を、

今日までその小さな身体に慢性的に受け続けて来たのだろう。

 少年の震える手は、がっちりと手元からこぼれ落ちそうなグレイブヤード・ダストの小瓶を握り締め、決して離す事はなかった。

「これを…………!!」

 

 パシィ!!

 

 刹那、小気味いい打撃音が店内に響き、憲太郎という少年は手の甲を押さえたまま苦悶の表情を浮かべ蹲る。

 リリィの白い掌が、少年の手を打ったのだ。ようやく拘束から解き放たれ、自由落下により固い木の床の上に四散しそうになった

グレイブヤード・ダストは、見事に脩の手元に収まっている。一秒のほぼ六〇分の一の世界…………。

フレームの世界の見切りを可能とする眼を持つ脩だからこそ出来る芸当だ。

「逆上せあがらないで。復讐したいですって? 魔術を用いれば弱い自分にもそれが出来る、まさか本気でそう思ってるの?

 縦しんば貴方がそれを成し遂げる事が出来たとして、貴方を苛めた輩が貴方の人生を返してくれる保障はあるのかしら!?」

 そう語るリリィの深紅の目から放たれる視線は……この世のどんな利器よりも鋭く、そして冷たい。

「うっ、うぅ……。なん、で…………!!」

「……貴方には認識がない。魔女術(ウィッチクラフト)は子供の喧嘩の道具でも、便利な殺人兵器でもないの。無明の暗がりの中で、

それでも光明を見出そうとする人の為にある、人間が今日を生き抜くための生存術なのよ。

それが分からないならばもう一発くらい、そいつらに殴られて来ればいいわ。そうすれば少しはピントが合うでしょう」

 黒い少女の、あまりに冷徹無比な言葉は、憲太郎という少年を圧倒するには十分すぎるほどの力を持っていた。

 カウンターに背を向け、よろめきながら退散して行く憲太郎。一同はそれをめいめいの気持ちを持った視線で見送った。

その後恐る恐るリリィに一つ尋ねたのは有紗だ。

「あの……いいんですか? あんな風にきつく追い返したりして…………」

「……有紗さん。(コヨーテ)(ロードランナー)を捕らえられない理由が分かるかしら?」

 

 有紗はいつか衛星放送で見たとある短編アニメを思い出した。七分足らずの短い時間、草木もロクに生えてない荒野で、

物凄い速度で地を駆けるロードランナーとそれを捕らえようとするコヨーテによるスラップスティックコメディ。

コヨーテはロードランナーを捕まえて食べようとあの手この手を弄するがいつも失敗して痛い目を見るのである。

 とはいえ、別にロードランナーの頭が図抜けて良い訳ではない。コヨーテは時として何処からか通信販売で購入した様々なアイテムを用いて

ロードランナーを捕まえようとするが、大抵いい所でその道具が壊れたりして、ロードランナーが何もせずとも勝手に自滅していくのである。

 道具を上手く扱えず傷を増やすコヨーテ。彼を思い出し、何となく、有紗は黒い少女の言葉の意味がわかった気がした。

「どうせああいう子は身の丈に合わない大きな力を手にしても、そのまま自重で潰れるだけだから」

「だが……アイツ。憲太郎とか言ったな…………。本物だぜ、復讐してぇっていう意志だけはよ」

「……本物だからこそ危険なのよ。彼は魔術の行使に伴う代価(リスク)を、何ら計算に入れていない。目先の復讐に囚われて、

その後が見えていないの。欲求、復讐心といった負の感情というものは、例外なく人を目暗にするものよ…………」

 リリィの口調はその見た目に似合わぬ、あまりに達観した、あまりに冷たきそれであった。

 無論、その場の誰一人、彼女に反論する事は叶わなかった。

 

(なんでだ……なんでだ……)

 

 帰り道、もう何度この言葉を呟いただろう。

 力では奴等に太刀打ち出来る筈などあるわけが無い。だから、それを使わずに復讐を成し遂げる方法を、死に物狂いで探した。

 書籍、ネット、根も葉もない噂話……。尽くせる手は全て尽くした。その甲斐あってつい最近、ここに一つの情報を得た。

自分を傷つけたものに対する、復讐に使える魔術がある。

 魔術を用いれば法に触れるリスクを犯す事無く、彼奴等をそれこそ一人残さず、地獄に叩き落す事が出来る。

危険な魔術には某かの代償は付き物だという事は理解していたが、自分自身それに対する恐れは無かった。

 このままでいれば本当に殺されると、自分なりに分かっていたから。結果は同じだと分かっていたから。

自分は失うものも全て失ったとはっきり言い切ることが出来るから。

 魔術道具を扱う店。何の気もなしに手にした雑誌の隅にあったそれをふと思い出し、半信半疑ながらもそれを探し、ようやく見つけたのに。

 それこそ、藁にも縋る思いだったのに。最後に残った希望も、あの少女に無残に打ち砕かれた。

しかも自分は彼女に“もう一発くらい殴られて来い”などと言われた。

「僕は悪くないのに……僕は何も悪くないのに…………っ!」

 なんでいつも世間というものは、強い奴の味方なんだ。なんで自分みたいな奴はいつも悪者扱いなんだ。

 なんで人は自分からチャンスを奪うんだ。先にそれをしたのはあいつ等なのに、

なんで自分に“無実の人間を悪者に貶めている”ような、あまりに馬鹿げた認識をするんだ。

 なんでだ。なんでだ! なんでだ!! なんでだ!!!

 思わず大声で叫ぼうとしてやめる。こんなところで大声を出したら、またしても自分はいい物笑いの種だ。

 これ以上、後ろ指を差されるのは、御免だった。

 

(もう、死のう……かな……)

 そうだ……死んでしまおう。生きていても意味が無いなら、そうした方が建設的だ。

 そうする事で自分はようやく、家族の……この世界の消費を減らす事で、初めて世界に貢献する事が出来る。

 自分が死ねば誰か泣くだろうか? いや、そんな奴はいないだろう。家族は肩の荷が一つ下りたと安堵するだろうし、

かつてのクラスメイトも教師達も、ようやく鬱陶しい奴が消えたと、狂喜乱舞して生きるだろう。

自分は空の上からそんな彼奴等を滑稽だと指差して笑ってやる。それもまた、一つの復讐になるだろう…………。

 

 ――それでいいのか。

 

 不意に、低い男の声が背後から響く。振り返ろうとしたものの、まるでその身体は手足は勿論の事、

指先や顔の筋肉に至るまで、金縛りにあったように動かせない。まるで声の主が“顔は見るな”とでも告げているかのようだ。

 冷や汗を絶え間なく流し、恐怖とも不安ともつかぬ表情を浮かべる少年に、男の声は続けた。

 

 ――死ぬべきはお前ではない。お前を死ぬ手前まで、愉しみながら傷つけた奴等の方ではないか?

 

 ――もしもお前が死して葬式が行われたとしよう。お前を苛めていた奴等はそこでどんな顔をすると思う?

 取材に来た莫迦なマスコミにどんな話をすると思う?

 

 ――間接的にでもお前を殺しておきながら、ぬくぬくと彼奴等は生き続ける。そうしてトントン拍子に出世して、

お前を苦しめた過去の瓦礫の上に暖かい幸せを築く。お前をそれを許容できるか?

 

 ――そんな事は可笑しいと思わないのか? それでは正義は存在しない。違うか? 

お前を殺した愚かしい者を、お前はこの世にのさばらせるつもりでいるのか?

 

 ――お前だけではない。今もこの広い日本、そして世界で、お前のように理不尽な仕打ちに傷つき、苦しんでいる奴がいるのだ。

そんな奴等の無念がお前なら聞こえるだろう。まさか、その怨嗟の声に耳を塞ぐのか?

 

 思わず、はっとした。

 そうだ……自分の、復讐したいという意思だけは、確実に本物の筈だった。

 その手段を絶たれたという現実に思わず目を伏せたが、そんな現実は絶対に間違いであってほしかった。

現実に絶望するなんて事だけは絶対にしたくなんてなかった。

「可笑しい……です。認めたく……ないです…………!!」

 何故かこの状況で、自然にハッキリと声が出た。生まれて初めて自分の意思というものを、明確に声に出した気がしてならなかった。

 傷だらけの心の片隅にほんの僅かだけ残った自分の正義感。もしかしたら、それが自分にそうさせたのか?

 他ならぬ自分の言葉に思わず困惑する。それを受けた声が続けた。

 

 ――それが、人の正しい感情だ。“汝の欲するところを為せ……”、それが人間に許された正義だ。

 無論、お前にもそれは許されている。後ろを見よ。お前に“力”をくれてやる。

 

 促されるまま後ろを振り返る。ロールプレイングゲームで見かけた小さな宝箱がそこにあった。意を決してそれを開く。

 思わずおぉ……と、感嘆の声が漏れる。少年に許された正義が、それを行使するための力と武器が、そこには沢山あった。

目を凝らしてそれこそ穴が開くほどそれらを凝視し、興奮に息を荒げる。

 瞬間、箱の中にずっと潜んでいたと思われる、ひとつの黒き影が此方に飛び掛って来るのが見えた。

それは姿はあまりに小さく、その動きはあまりに速い。振り払うどころか何物かと考える間もない。

 あれは、おそらく蛇か何かだろうか……。思わずひぃっ、と情けない声を上げそうになるが、ただそれだけだ。

その前に影は何処ともなく消え去り、噛み付かれた痛みも毒の苦しみもなく、残されたのは自分と古ぼけた箱だけ。

ただの幻だったかと胸を撫で下ろし、改めて箱の中身を確認する。その一つを手に取って、改めて確信する。

 力が、自分のものに……。誰にも苛められない、誰にも莫迦にされない、そんな力が自分の手にある。

米田憲太郎は込み上げる愉悦を抑えられなかった。

 礼をしようと後ろを振り返った頃にはもうそこには誰もおらず、その声も聞こえなかった。

 

「ほい、終わったぜ」

「……ご苦労様」

 閉店時間を迎えたセカンド・デグリーの店内に、浄化(ブレッシング)のインセンスの香りが満ちてゆく。

先程から立ち込めていた不快な陰の気が、インセンスの放つ香に溶け、その全てが無に帰していく。

 火をつけた木炭(チャコール)の上に振り掛ける事によって使われるインセンスは、セカンド・デグリーの主力商品の一つだ。

自己変革、能力開眼、さらには攻撃的な魔術と、兎に角その種類は用途によって非常にバリエントに富んだもの。

 木炭と火を使用するため扱いが難しい、というより危ないのが難点といえば難点といえるが、それさえクリアすれば容易く使う事が出来、

しかも効果は十分にある。それがインセンスの人気を支えていた。

 

「いつもこんな事してるんですか?」

「まぁね。道具に不浄な要素がつけば、その力はたちまち失われるから。因みに今日はいつもの四割増よ。久しぶりに不快な子を相手にしたしね」

 まるでいけ好かない客が去った後、店先に塩でも撒くかのごとく、リリィは終始インセンスを乱暴にチャコールにぶちまけていた。

彼女とは相当長い付き合いの脩も流石にその光景を苦々しく思っていたが、まぁ無理からぬ事だと納得する。

 リリィもあぁいうタイプの客を相手にするのは初めてだっただろうし、相当苦痛でもあっただろう。

「悪かったな、二人とも妙な事に付き合せちまってよ」

「いいよ、別に。ところで脩はどうするの?」

「俺はもうしばらくしなきゃならねぇ事があるんでな。有紗と光吉は先に帰っといてくれ」

「あぁ……分かりました。脩さんもお気をつけて!」

 

 幼馴染がいたいけな少女と二人きり。有紗はそんなシチュエーションに釈然としないものを感じつつも、あまり気にしないように努める。

 別に脩と自分は恋人同士というわけではないし、有紗自身が仲のよい幼馴染という関係以上のそれを望んではいない。

それに、一端の同人作家としての有紗は、所謂“萌え”が恋人のようなものだからだ。一般人とは根っ子から異なる存在だからだ。

 ……恋より仕事、という大袈裟な話だというわけでもないが。

 中野ブロードウェイの雑踏に有紗と光吉が消えたのを認め、脩は振り返りもせずにそっと傍らの黒い少女に切り出す。

「邪魔者も退散した事だし……そろそろ、アンタの用事の話に入ろうぜ」

 アンタの用事……。それを聞いてリリィは口元をふっと緩める。この“アンタの用事”という言葉は、脩のような“力”を持った人間と、

この世界の闇を見つめるリリィのような者との間にのみ、事細かに通じる言葉だ。

 

 オカルトショップ・セカンド・デグリーの裏の顔…………。遣い人派遣業の顔がむくりと擡げるのは、閉店時間を幾分過ぎた頃。

 片思いを成就させたいだの、不倫相手と別れたいだの、地位と名声がほしいだの、そして……時に憎い相手を殺したいだの。

そういった人々の依頼に応え、それに応じた遣い人を送り、彼の者の願望を成し遂げる。

 インターネット上に掃いて捨てるほど存在する詐欺紛いの復讐代行サイトとは全く違い、セカンド・デグリーはそれなりに

信頼の置ける業者の一つだ。依頼料は決して安い部類には入らないもののその成功率から、やはり需要は非常に高い。

そして都内で活動する異能力者……遣い人達も、生きる糧とその身に滾る力のぶつけどころを求め、“召使い”として黒い少女の元へ集う。

 脩もまた、セカンド・デグリーの代表者たるリリィお抱えの遣い人……“召使い”だ。

「こないだのアレ……上手くやってくれたみたいね。流石に暴れすぎだとは思うけど」

「悪かったな……アイツ等が気に食わないから本気を出しすぎた」

 いつだったか、脩は東京都内で幅を利かす危険な暴走族グループ、関東弩羅厳会にたった一人で立ち向かい、これを全滅させた。

 無論これもまた、セカンド・デグリーが請け負った依頼の一つ。依頼主(クライアント)は弩羅厳会により息子を失った母親だった。

 いつもの下校途中に彼等に因縁をつけられたその息子は、ともに下校の途についていたクラスメイトもろとも彼等のアジトたる

廃棄工場へと連行され、殴る蹴るの凄絶な暴行の末、たった一五年の生に幕を下ろさざるを得なくなった。無論、クラスメイトと共に。

 当然、各々の母親は、すぐさま警察へ駆け込んだ。だが相手も息子と同じかひとつふたつ年上の、まだ一〇代の若者だった事、

そして何より彼奴等を束ねる総長が所謂“遣い人”であった事……。

 それが響いたか、彼等は二人の母が望んだ処罰を、見事に免れた。

 最後の手段として二人はセカンド・デグリーに弩羅厳会の“呪殺”を依頼し、脩が動いたのだ。

 息子の無念。残された者の悲しみ。それら全てを「罪深き者達を罰する」という己自身の深い罪と共に背負い、

脩は、只管に自分の中の“破壊の力”を振るった。

 結果、弩羅厳会の者は一人残らず、身体の一部を消し飛ばされたり焼き焦がされたり…………そこに、綺麗な屍は一つも残らなかった。

 

 そんな脩の力の性格上、彼に回る依頼はもっぱらこういう“呪殺”専門である。それもあってあまり仕事そのものが多く回る事はないが、

一回の依頼料がかなり高額なため、リリィが仲介料を差っ引いても脩自身に入る額は相当なものだ。

 総武中央沿線の郊外のアパートに一人暮らしで、しかも学生という身分を持つ脩が、それなり以上の生活が出来るのもこれのお陰である。

 だが、脩がこうしてセカンド・デグリーお抱えの遣い人として戦いに身をおくのは、決して金のためではない。

 人に“力”を与えた、亡き脩の父。脩の戦いは父の“罪”を購うため。そう割り切って彼は戦場に身を置いてきた。

身寄りなどほぼ無いに等しい、迷い子たる脩を、リリィはずっと導いてきた。

 数時間前にちょっとした儀式が行われた、奥の部屋のテーブル。その上に羊皮紙に事細かに書かれた資料が並ぶ。

「垂木源輔、四八歳。指定暴力団鬼王会の大幹部、そして高利金融業・ハッピーライフの経営者」

「ハッピーライフねぇ……看板に大いに偽り有りって感じだな」

「そうね。このハッピーライフ、金利も取り立ても苛烈そのもの。最高で法定の七〇〇パーセント。今日までに自殺者も八人くらい出ているそうよ?」

「成る程。今回の依頼人はそいつの自殺遺児の一人ってか」

「……鋭いのね」

 ターゲットの縄張(テリトリー)。彼奴が一人きりになる時間。それらを聞き終え、いざ事を起こさんと歩みだす脩。

 その小さな背中にそっと、リリィは告げた。

「脩。貴方は、何も感じないのかしら?」

「…………何が言いたい」

「今回のヤマもそうだけど、貴方のする事は早い話、人殺しよ。人が同じ人を殺める、言ってしまえばそれは“共食い”。

どれだけ限界まで餓えた獣ですらしない、自然界の絶対の禁忌なの。それを犯す事について……貴方は何も思うところは無いのかしら?」

 リリィは深紅の瞳を宿す目を細める。脩が戦う理由、それは彼がまだ何も知らない小さな子供だった頃から

その傍らにいた彼女自身が一番分かっていた。

 しかし、まだ一七しか生きていない少年・脩が、この世の罪や罰といった重すぎる十字架を、たった一人で背負う様。

それがはっきりと見えている彼女は……いや、彼女だからこそ、心配せずにはいられないのだ。

 危険な“力”をその身に宿す少年に、力のぶつけどころを与えてしまったリリィだからこそ。

「そりゃあ貴方が今まで屠って来たのは、死んでもらった方が世の中の為になる、人間が人間として存在するために

必要なものを侵す悪党ばかりよ。だから貴方も罪悪感というものは無いかもしれない。でも、少しくらいは感じるはずよ……

自分が、段々と“人間”の領域から、遠ざかっている事が」

「リリィ。あんま深い事は考えなくていいだろうが……奴が気に喰わない、俺が動く理由はそれだけだ」

 あまりに粗暴だが、その声には確かな脩自身の、『意志』があった。

「それに、世の中には形はそうであっても、人に分類出来ないような奴なんてゴマンといる。俺やアンタのようにな」

 古惚けた扉の向こうへ去り行く脩。それを見送ったリリィの呟きが部屋に響く。

「ふふ……っ。父が狂気の天才なら、息子もまた…………か」

 脩が本気なら、ターゲットの生も確実に今夜で終わりだろう。リリィは思わず含み笑いを禁じえなかった。

 

「で、からきし駄目だったんだよ! ハハハハハ!!」

「おい、そいつぁねぇだろ、ケケケケ!!」

「笑っちまわぁ!! イッヒヒヒヒヒ!!」

 真っ昼間からあまりに下品かつ、無軌道な若者の声が響くのは渋谷区センター街。待ち合わせスポットとしてあまりに有名な忠犬ハチ公像から、

井の頭通りと文化村通りの間を西に進む街道が、この渋谷センター街である。

 敷地の有効利用の為にかつての宇田川を暗渠し、その上に作られたのがセンター街だ。もしもそこに川が無いのに、

橋の欄干が残っているなんて場所があったら、そこは川を暗渠して作られた土地という証拠だ。

 さて、渋谷区の代表的な商店街であるセンター街は、ゲームセンターやファーストフードの店が乱立する、

若者の町・渋谷の面目躍如というべき場所だ。そして無論、そこに屯する無軌道な若者達は須らく徒党を組み、

堅気の人間を然したる理由もなく襲い、野の獣の如くその日その日を漫然に生き続けている。

そしてそこがどういう場所なのかろくすっぽ理解せずにそこを訪れ、不運というべきか、それとも自業自得というべきか…………。

 無様に喰われる者と浅ましく喰う者が、それこそこの渋谷センター街にはゴマンといる。彼等はある種、この街の名物だ。

そんな東京二三区屈指の危険地帯であるセンター街に、米田憲太郎はふらりと訪れた。

 既に高校は強制退学となったので、常に暇を持て余す日々を送る憲太郎。先日彼はホンの小さな噂で聞いた中野ブロードウェイ最奥にある

魔術専門店、セカンド・デグリーを訪れ、その店主たる少女にきつく追い返され、失意のまま帰宅の途についているところを、

とある声に呼び止められ……力をくれてやるという声の主に応じ、一つの宝箱を渡された。

 興奮しながら開いた宝箱の中にあったのは、人形、短剣、護符(タリズマン)、そして……極彩色のサラサラしたパウダーが入った沢山の小瓶。

 今回憲太郎はその中の小瓶を手に、渋谷センター街の雑踏の中にいた。パウダーの“臨床実験”をするために。

 あっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ、視線を絶えず動かし、今回の実験台(ターゲット)を探す。

 無論、憲太郎自身も半信半疑だ。こんな黴の生えたような、子供の玩具の延長のようなこれらの道具に本当に効果があるのだろうかと。

だが、あのときの声はこうも言った。

 

 ――ただ、信じろ。話はそれからだ。

 

 信じろ。そう言われれば信じざるを得ないが、すぐに割り切るのも不可能な話だ。

(もしも効かなかったら?)

 高校時代の苛烈な苛めによって刷り込まれたそんな疑問が思わず首を擡げ、その行動にブレーキをかけてしまう。

いつの間にか憲太郎にはネガティブな事から先に考えてしまう悪癖がついてしまっていた。

 憲太郎の精神は、既に葛藤によって形成されたも同然の状態だった。ただでさえどっちつかずな、はっきりしない米田の性格が、

魔術などという奇っ怪もしくは胡散臭いそれに触れたせいで、ますますそのブレ幅を大きくしていたのだ。

 いざという時に、最初の一歩を踏み出せない。そんな米田の忌むべき悪癖は今もこうして、他ならぬ米田自身を苛んでいる。

「おぅ、待ちな!!」

「何ガンたれてんだ、ガキがよ。どっから湧いて出た!!」

 と、突然に、先程まで口汚く談笑していた四人組のチーマー達が、憲太郎の前に立ちはだかった。

 秋葉原、新宿、池袋……場所を選ばずに現れては弱き者に寄って集って絡み、襲っては、

金品やら何やらをごっそり奪っていく、このあたりでも札付きのストリートギャング集団だ。

 しかも生意気に知恵も回るのか、今日まで警察の必死の捜査をのたりくたりとかわし、許されざる犯行を際限なく重ねて来た。

今日は渋谷でひと稼ぎと洒落込んでいたようだ。先日秋葉原で高校生に絡んで、

そこに乱入してきた蒼髪の少年に完膚無きまでに叩きのめされたばかりなのに、彼奴等はどうやら懲りるという言葉を知らないと見える。

 そいつ等にとって憲太郎は、実に相手にしやすい“カモ”だった。

「あぁん、殺しちまうぞこのカスが。てめーのその犬の糞踏んづけた足で渋谷の道をムダに臭くすんじゃねえや!」

「どうなんだ! 返答次第じゃただじゃおかねぇぞ、えぇ!!」

 腹の底から吠えて恫喝する。そうすれば相手は完全にビビッて、財布ごと差し出して逃げていく。

 無論、彼等はそれを逃がすはずもない。金はいただく、そして……命もいただく。それが彼等のスタンスだ。

初めから彼奴等は、憲太郎を生かして帰すつもりなど毛頭ない。

 こんな所で絡まれるのは、憲太郎にとって全くの想定外だった。センター街に屯する若者達。

その中でも一際弱そうな奴を実験台に選ぶつもりだったのに、そんな奴すらなかなかどうして見つからなかった。

 それどころか逆にその中でも怖そうな奴に、よりによって目をつけられた…………。危険信号(アラートシグナル)が大音量で喚き始める。

「何とかいえよ、クソバカ野郎!!」

 痺れを切らしたチーマーの一人が憲太郎にその拳を振上げる。この後の結果に怯える憲太郎の頭に、あの時の声が響いた。

気がつくとその右手には今日の実験に使うつもりでいたパウダーががっちりと握られている。

 

“念を込めて、そのパウダーを対象に振り掛けよ”。

 

(ただ、信じろ……!!)

 小瓶の中身を一掴みとって、全身の力を込めてそれをぶちまける。飛散したパウダーはそいつの顔面にクリーンヒットした。

「ぶわっ!!」

 目や鼻に少なからずパウダーが侵入したのだろう。そいつは一瞬苦悶の表情を浮かべて蹲る。

「……ざけやがってぇ!!」

 だが、それもやはり束の間。自分の攻撃は相手を逆上させる結果を招いたようだ。

 そんな……自分の力が足りないのか? それともやはり騙されたのか? そんな事を考えている間にも奴は鼻息を荒げ、

血走った目で此方を睨んでいる。怒らせた肩、硬く握られた拳。当然、それが振り下ろされるのは、間違いなく自分の顔面。

 …………このままでは、確実に、やられてしまう!!

(……来るな!!)

 心の中で思い切り、迫り来る奴に向けて、大きな叫びを上げる。

「…………」

 ……どうした事だ。あの叫びから数秒ほど時が経っても、自分のもとに拳が飛んでくる気配は無い。

それどころかそいつは呆然とその場に突っ立ったままだ。既にその瞳には何も宿っていない。

「オイ、何ぼさっとしてんだよ、ナオキ!!」

 仲間がナオキとか言う奴を小突いても、全く反応なし。憲太郎も不良達も唖然とする。

(まさか…………効いたのか?)

 それに触れたものの魂に死を齎し、その肉体を己の操り人形とする、ヴードゥー由来のマジカル・パウダー。

昨日の宝箱の中に入っていたあのパウダーが“効いた”ならば、あんな事も出来る筈だ!!

 意を決した憲太郎はその魂を失い、自らの完全なる操り人形と成り果てたナオキに、その邪な心で命令を下す。

 

 “奴等を……残った三人を殺せ!!”

 

「――――――――――――――――!!!」

 顔を歪ませ白目を剥きながら、人の言にならない咆哮を上げるナオキ。他の不良達は突然の仲間の絶叫に腰を抜かすが、

そんな暇すら与えぬとばかりに、ナオキの拳が一人の顔面を捉えた。派手に後方に吹っ飛び、もんどりうって倒れる男。

 その力はかつての彼のそれをはるかに凌駕していた。理性による力のブレーキを失った身体による一撃が与える威力は、

もはや語れる次元には無い。人間の身体というものは本来、非常に強いものなのだ。

 脳が、心が、理性というブレーキをかける事で、人はそれを制御し、必要以上の力が出ないよう、自らを抑圧している。

憲太郎の放ったマジカル・パウダーは、そのブレーキを壊すのだ。もはや今のナオキは檻から放たれた獣も同じだ。

 ナオキは仲間の一人の髪を乱暴に掴むと……思い切りその頭を路上に、何度も何度も叩きつける。

そのたびに奴の頭とアスファルトは血に染まっていき……二五回くらい叩きつけられた頃には、もうその男は、何も痛みを感じなくなった。

「うっ、うわっ、うわぁぁぁああああ!!」

 仲間による公開殺人! 当然のごとく、残った二人は蜘蛛の子を散らすように別方向へ逃げ去ってゆく。

 しかし、憲太郎の傀儡と化したナオキはすぐさま彼等に追いつき、一人の急所を突き上げるように膝を何度も入れ込む。

完全に抵抗する力を失った男は、無数の鉄の猪の群れが高速で疾駆する、国道のど真ん中に放り込まれる。

 数秒後に不運にも彼を直撃したのは四トントラック。時速約五〇キロ前後で渋谷の国道を行くトラックのバンパーが、

アスファルトに屈服し再び上体を起こそうとした男の顔の中心部分に、速度と重量を伴ったストレートパンチを叩き込んだ。

 

 顎に素手の打撃を受けただけでもその衝撃と梃子の原理で柔らかな脳は激しく揺さぶられ、硬い頭蓋骨と何度もぶつかって

 それはそれは計り知れないダメージを負う事となるのに、顔の急所の中でもひときわ脆弱な部類に入る中心部分に、

人間が耐えられる限界衝突速度と重量を遥かに超えるそれを持った一撃が入ったのだ。

 脳に縦横に張り巡らされた血管があまりに強すぎる衝撃に耐えられず一瞬のうちにほぼ全て断裂し、頭蓋内に大量の血液が飛び散る。

 衝撃が鼻骨を楔にして頭蓋骨全体に伝わり、前頭骨、頭頂骨が万遍なくひび割れ、やがて粉々に砕ける。

守るものがなくなった脳も同様に衝撃で四散する。

 無論、バンパーの一撃をモロに喰らった頭を支える首の筋肉や頚椎が耐えられる筈などある訳が無く、それらは悉く千切れ、砕け、

彼の者の首は無残にも胴体との永遠の別離を余儀なくされ、高々と飛翔してそのまま落下する。

 ――その全てが、ほぼ一瞬。なんの心の準備もないままトラックに撥ねられ、今や引きちぎられた首だけとなった男が出来る事といえば、

唯一自由な……しかしすぐにその機能も失われるであろう眼球を動かして、手足がありえない方向にひん曲がり、

それでもなおピクピクと痙攣を続ける首無しの骸を見つめ続ける事だけであった。

せっかちな地獄からの御使いは彼の男に“痛い”という叫び声を上げる事すら許してはくれなかった。

 もう一方の男は奴が片一方に構っている間に逃げるだけ逃げて、ビルの隙間に身を隠している。流石にここまでは追っては来るまい。

脇目も振らず我武者羅に走ったから息も既に絶え絶えだ。だがあまりに、あまりに尊い犠牲を払って自分は生き延びた。

 とりあえず今は体力の回復を待とう。そして警察に駆け込もう。警察といえば自分達が一番嫌いな奴等だが、

今の状況では自分は全くの被害者だ。ありのまま目の前で起こった事を洗い浚い話せば、きっと彼等は、

今やただのケダモノとなってしまったナオキから自分を守ってくれるだろう……。

「え……っ」

 と、安堵した彼に大きな影が重なった。何事かと目を見開き、そいつの存在を認めた頃には……………………。

 

 ドカァ!!

 

 全てが、遅かった。

 金属バットによる打撃が、彼を捉えたのだ。それは一片の躊躇いも抑圧も無い、無慈悲な強打。

本気で殺すという覚悟が無ければ絶対に振るえない、少なくとも自分達では確実に不可能な一撃。それが何度も襲い掛かる。

 逃げ回り続けた事で体力も限界間近だった彼では、逃げる事もままならず、ただただ打撃を受け続けるしかなかった。

いったいどれくらい殴られたのか……いつしか彼は、自分が殴られているという自覚すらも、すっかり無くなった。

 三人を……かつての仲間を無意識のうちにあっという間に屠ってしまったナオキ。憲太郎はそんな彼を冷たい眼で見つめ続ける。

 なるほど……このパウダー、紛れも無い本物らしい。これならきっと、望んでやまなかった復讐も、容易く成し遂げる事が出来る。

 かつて自分を傷つけた奴等を使っての臨床実験は大成功に終わった。協力者たるナオキに、憲太郎は最後の命令を下す…………。

 

 それを受けてナオキは。

 ゆっくりと雑居ビルの非常階段を上り、やがて屋上に辿り着き。

 一切の戸惑いも躊躇いも無く、その身を、大地へと躍らせた。

 

 アスファルトがナオキの頭を叩き割る。流れ出た鮮血が歩道のタイル地に沿って広がっていく。

センター街を行く人々が悲鳴の大合唱を響かせる。冷たい眼差しのままそれを遠巻きに見つめ、

憲太郎は口元を緩ませ、邪な含み笑いを漏らす。

 マジカル・パウダーに、ヴードゥー魔術に狂いなし。

 

 未だに響く悲鳴のオーケストラを背に受けながら、邪術師(ボコール)・米田憲太郎は、渋谷の人の波の中に紛れ、そして姿を消した。

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