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ex-stage1『オカリナのなる頃に』

 いつか流れる水に、その行き先を聞いてみた。

 吹きゆく風にも、その行き先を聞いてみた。


 その度に、仲間にでも聞いてくれと、彼等はそう答えた。

 言われた通りに聞いたところで、返る答えは只一つ。


 誰も彼も皆同じ、“仲間にでも聞いてくれ”。


「あ〜、終わった終わった!」

「あぁ。何時にもまして今日は長く感じたもんだな」

「全く。何で夏休みだっつぅのにわざわざ学校まで出向いて、冷房もロクに効いてない教室で授業受けなきゃなんないのよ! 

こんな事するくらいならいっその事夏休み自体廃止しなさいって感じよ、本当!!」

「身も蓋もない事言うんじゃない。有紗、愚痴りゃあこの憎たらしい夏季講習が潰れてくれるのか?」

「そっ、そんな事言ってないし思ってもないけどさ。それよか脩、この後予定ある?」

「まぁな。ちょっと残りてぇ気分だ。有紗は先帰っとけよ」

「ふぅん……じゃ、また明日ね」


 八月が始まって暫らく経った今日という日も、もうすぐ夕刻を迎えようとしている。

 窓の外に浮かぶのは、抜けるような青空の下に山脈の如く連なる入道雲。

 最近はどこかしこもビルディングやらマンションやらがまるで背比べでもするように乱立しているが、ここはそんな不毛な争いを

 “ふぅやれやれ”と一笑に付すかのように、巡り巡る時代の流れに悠然と棹差すように、ただ、そこにある。

 古ぼけた木の香りと、夏の熱い風に満ちた聖エミール学院旧校舎。だが、現在そこにある教室の大半は、

 その殆どが数多ある文科系クラブの部室としての機能しかない。最早旧校舎ではなく“部室棟”という表現の方が正しいだろう。

 そこの一室に、少年・姫鶴脩は佇んでいる。

 数日前に高校総体インターハイを終えてオフシーズン同然の体育会系部員も、秋の文化祭までまだ間がある文化系部員達も

 昨今は夏季講習の方に出ずっぱりで、この時期に部室棟が使われる事は全くと行っていいほどない。

 脩は別に何かの部活動に所属しているわけではない。この日の講習を終えて後は帰宅するだけという脩が、

 幼馴染みの少女・八幡原有紗をたった一人帰してここにいるのは何の事はない、ただの気紛れだ。

 この日の夏季講習を既に終え、午後五時。今この“部室棟”にいる物好きな奴は脩だけだ。それで、

 ふと気が向いた時にこうして空いた部室の一つを訪れ、そこでぼんやりと過ごすのが、昨今の脩のちょっとした楽しみとなっている。

 別にそこで何をするわけでもないのだが。

「まだ、日は沈まないか…………」

 最近はめっきり日も高くなり、この時間帯でも外は十分明るい。夜の寒さも和らぐのでその気になれば夜の七時かそこらまで出歩く事も

 出来そうなほど、日照時間は長くなっている。一人暮しの脩には一介の学生によくある門限その他など無いも同然ではあるが。

「本当。嫌な季節になったわねぇ…………」

 不意に後ろから響いた少女の声。夏だと言うのにその場所からだけ、まるで刺すような異常な寒気が立ち込める。

 “それ”の出所が旧知のあの娘である事を脩はすぐに理解した。


「……いつからアンタ、そこにいたんだ」

「最初から……とでも、言えばいいかしら」

「……全っ然、答えになってねぇよ」

「“人”でしょう? それぐらい自分で直ぐに察しなさいな」


 はぐらかすような受け答えを悠然とし、どっさりとフリルがついた漆黒のワンピースを着こなしたブロンドの少女……リリィだ。

 こんな暑い時期に黒ドレスにタイツにカッターシューズという、お馴染みのステレオタイプのゴシックロリータで現れた吸血鬼の少女を、

 脩は心底天晴れな娘だと思う。学校にまでやって来た黒い少女にも全く驚く素振りを見せない脩。

 一体何処から入ってきたんだとか、真昼の烈日の下を歩いて来て何故平気なのかとか、聞きたい事は山ほどある。

 それをこの場で彼女に聞こうとして、やめる。自分が何かを聞いたところでこの娘がロクな答えを返さないことは、

 今までの彼女を見ていれば十二分に分かる事だったから。


 二人がいるのは嘗ての音楽室。軽音楽部や吹奏楽部等が交替で使用している場所だ。

 無論両部も夏季講習が忙しい為か今日はお休みらしい。それをいい事に脩もリリィもこうして今、好き勝手をしてみたりしている。

 高そうな楽器の数々等、各部の備品その他も今は二人のいい玩具だ。

「……ふふ。聖エミール女学院にもこんなとこ、あったのね」

「“女”は取れよ。俺が入学した頃にはもう共学になってんだ」

「そうだったわね。まぁ、体質自体はあまり変わってないかもだけど」

「そうそう容易く学校って組織は変わらないさ」


 相変わらずこの少女は脩にも分析し辛い、掴めぬ雲のような性格をしている。たまに掴む事が出来たと思ったら

 指の隙間をさっとするり抜けてしまうし、たまに手を持っていかんとする勢いで猛然と食らいついて来たりもする。

 付き合いは長いのにどうにも相手にし辛い娘だ。だが今の脩が脩として生きられる世界を提供しているのも、

 彼女だと言う事実は揺るがない。其れ故脩は彼女にあまり五月蝿くものを言えないところもある。

 この先何年彼女と“運命”とやらをと共にしていくのかとしみじみ思う。恐らくは、ずっと。

 自分の中にこの“力”が、己が課した“使命”ある限り、恐らくは、一生涯。


「…………変わったもの、持ってるじゃない」

 不意に、リリィが脩の手の“それ”を認める。涙の雫を思わせる形状に、

 表面に七つの穴が開いた掌サイズの茶色い陶器の気鳴楽器……オカリナだ。

「ここをガサってたら出てきやがったんだよ。大方、吹奏楽部の誰かさんが持ち込んでそのままにしてたんだろ」

「あらあら。脩と管楽器とは……あまりにミスマッチな組合せね」

「……あんまし俺を見くびるなよな。ちょっとくれぇなら出来ねぇ事はない」


 大きく息を吸って心拍を整え、記憶の中の一つのメロディを選び出し、そっと吐息をエッジに当てる…………。

 頭に浮かんだその旋律。記憶に埋もれたままだったそれを掬い上げ、奮い起こし、吐息に乗せて送り出す。

 脩の息吹を受けたオカリナが歌い始める。素朴な、且つ円やかなその歌は教室に、古ぼけた部室棟に、

 夏の風に乗って流れゆく。その旋律を聞いたリリィが口元を緩めた。


「ダニー・ボーイ、ね」

「あぁ。愛蘭(アイルランド)民謡。あまりに有名過ぎる別れの曲だ」


 元はタイトルも歌詞も無いロンドンデリーの歌の旋律に歌詞を載せたものの一つが、ダニー・ボーイ。


 ああ 私のダニー バグパイプの音が呼んでいる

 谷間を渡り 丘をくだって

 夏は過ぎ 全ての薔薇は散り あなたは行ってしまった 

 あなたが帰るのは 夏草が茂るころ 渓谷が白く雪に染まるころ

 私はいつでも待っている

 私のダニー あなたを愛している 


 ダニー・ボーイの歌詞は、女性から男性に別れを告げるニュアンスが強い。だが嘗てのとある者はその歌詞の中に、

 戦地へ向かう夫や息子を想起し、生きて戻ってきておくれと言う儚い願いを歌に託した。

 死が蔓延する戦場の先にある平和な朝。それを拝む事無く傷つき斃れ、夜の深き闇に消えていった者がどれくらいいたかは、

 二人の想像に難く無い。それに比例して存在するのは、彼等の帰りをその時まで懸命に待ち続けた、彼の者を“愛する者”達。

 敗れ散った者達の無数の屍という土壌の上に築かれた、今の平和。彼等が夢見て、そして二度とそれを拝む事叶わなかった平和な朝。

 平和が訪れ、今日に至るまで何度もそれは繰り返されてきたが、何時の間にやら今の人々はその意味を、忘れてしまった。

 無論この日本と言う国の土壌も、その殆どが、朝日を夢見て散っていった者達で出来ている。今の平和を謳歌する者達が、

 その事実をどう受け止めるかは知る由もないが、確かにそれは、今の人々が向き合うべき確かな“現実”だ。


 当たり前の日々。変わり映えしない世界。それは誰かの犠牲の上にあるもの。何故人はそれに気付かないのだろう。

 何故未来の為に命を散らした者達の上に出来た平穏な世界に、人は変革を望むのだろう。

 何故人は、今に満足できないのだろう…………。


 あなたが帰った時 

 もしすべての花は枯れ 私がこの世にいなかったら

 どうか私が横たわる場所を見つけ 祈りをささげて欲しい

 あなたが私の上をそっと優しく歩いて 愛していると告げるとき

 私は安らかに眠れるでしょう 


「ねぇ、脩…………」

 何かを思い出したのか、リリィがそっと切り出す。

「明日は何の日だったかしら?」

「八月十五日。丁度何度目かの終戦記念日だ」

「そうね。ヒロシマ・ナガサキを始めとする無数の不条理な犠牲と引き換えに、第二次大戦が終結した日よ…………」

「そうさな。だが、まだ“戦い”は終わっちゃいねぇだろ」


 今も、世界の何処かで紛争は起きている。そして当然、そこにあるのは大きすぎる哀しみ。

 哀しみは今日まで何度も繰り返されたのに未だにそれは繰り返されている。いや、もっと大きな哀しみが絶えず生まれている。

「懲りるって事を知らねぇよ、人間ってのはさ。人間が人間である限り、愚行も哀しみも繰り返される。

 …………救われねぇよ、どいつもこいつも、人間ってのはよ」

 壊す事は出来ても、作る事は出来ない自分。哀しみを生む者を斃しても、そこから慶びを生み出す事は出来ない自分。

 姫鶴脩は何度も何度も、己の拙きを悔いてきた。痛いくらいに。

「まぁ、兵器である貴方は、ただ壊せばいい。そんな愚かしい時代をね……“作る”事は、未来の人間にでも任せればいいわ」

「分かってるよ」


 そろそろ空も藤色に染まり、一番星が輝く。また皆が夢見る平和な朝を、待つように。

「脩は、どんな未来を望むかしら」

「俺みたいな奴を、必要としない世界」

「ふぅん。じゃあ、人殺しの道具である貴方を爪弾きにするそんな世界。貴方はどう生きるつもり?」

「……そん時が来たら考えるさ」


 そうは言っても、その心のホンの片隅、ただ一つだけ。脩は願わずにいられないことがある。


 願わくば、このダニー・ボーイの第二、第三楽章が、奏でられる事の無い世界を。

 星影に照らされ、宵闇差し迫る部室棟を、鎮魂と儚き願いの旋律だけが、そっと駆け抜けていった。


 オカリナは歌う。傷つき斃れた者達には決して届かぬ鎮魂歌(レクイエム)を。

 吹きゆく風のように。流れる水のように。

 ただ、祈るように。ただ、願うように。

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